『裁判てなんですか?』06/02/05 四宮啓さん

陪審員制度と言えば、映画でしか見たことがない。
思いつく限りだと、『評決』『告発の行方』『十二人の怒れる男』『白と黒のナイフ』など。
特に『十二人~』などは、アメリカの陪審員制度、正義の良さを表現したように言われているけれど、
あの、ヘンリー・フォンダが扮する建築家がいなかったら、被告の少年は有罪判決を下されて、死刑は免れなかったはずなのだ。
ずいぶんいい加減なものだ、という気がどうしてもしてしまった。
実際、『白と黒のナイフ』では、無実の人間を有罪に追い込んだ過去を持つ女性弁護士が主人公だった。
人間のすることだから、間違いがないなんて言い切れない。
間違いを少なくするために、訓練をみっちり積んだ専門家が判決する、というのが日本のスタイルだと思ったし、それについては、それなりの信頼感も持っていたのだけど、今、日本の裁判が変わろうとしている。
それは、「小さな政府」を目指している日本の、ひとつの流れなんだろうか。

前もってそんな思いを抱いて聴いたこの回。

日本の裁判には、かなり情が強く込められているような気がする。
判決文に「身勝手な」「不憫な」という言葉が普通に出てくる。
これは、人間の言葉だ。
どちらかというと、アメリカの裁判の方がずっと機械的なイメージがあったのだけど、それは事実と反するだろうか。
しかし、奇しくもスティーブン・キングが、著書『グリーン・マイル』で示したとおり、陪審員制が最大公約数的な『情』の部分を担っているため、被差別人種への判決は、より一層重い、という歪んだ面もあって、一概には言えない。
四宮先生が書かれたシンプソン事件の本を読むと、たぶん、格差社会の中での裁判のゆがみについて、もっと克明に知ることができるような気がする。
模擬陪審員になる心理テストも数々あるそうだが、例えば、容姿が美しい人に対しては、人間どうしても評決が甘くなる、という傾向があると聞く。これなどは耳が痛い。
日本の裁判制度を変えることによって、日本の何をどう変えようとしているのか。
日本には、アメリカ的な差別はないように見えて、被差別カテゴリーの人たちの人数が母数に比較して少ないことから来る、より深刻な差別はいくらでもある。
本当に日本の法制度を変えて、日本は大丈夫なんだろうか。
それは、やってみないとわからないかも知れないけど、
人を裁く痛みを全員で担いましょう、という趣旨だとたら、少し怖い気がする。
人を裁いたり、支配したり、傷つけたりする欲望が、この世のどの人間にも存在しないというのであれば、納得する。
岡田君は、裁くことに責任を感じるから嫌だというけれど、それを楽しめてしまう人間だって、いるかも知れない。
つまりは、これによっては、「正義」をフィルターにしたときの、日本人というものの総合的な価値が決まっていってしまう気がする。
「ものづくり」では世界一なのに、実は・・・・・・なんてことになるのが怖い。