『それでもボクはやってない』

さくらん』を見た後、二本続けて見て来たのがこれ。順序を逆にしなくて大正解だった。つまらない、という意味ではなくて、どこかいたたまれないところがある映画だった。ものすごく疲れた。はっきりと使命感を持って映画を作った、と監督が語っているけれど、映画作りの姿勢としては、個人的にはちょっと引いてしまう。隠しておいて、聡明な観客が「見つけた!」と言い出して、それが広まっていく、みたいな搦め手の方が好きだったりする。まあ、あくまで個人的な好みの問題ではある。

ところで、性暴力といえば、被害者の目線から描くのが映画ではほとんどだけど、アメリカ映画であまり有名ではないもので、人違いによる冤罪というテーマのものを見たことがある。その映画でも、性暴力の被害者に対して医者や警察や恋人や法律家がさらに加える人権侵害の数々が克明に描かれていて、こちらもずいぶん陰惨なものだった。見た人はいろいろ考えてしまったろう。性暴力の被害者が証言台に立つとき、スクリーンを立てて傍聴人席から見えないようにする配慮というのは、いつ頃からはじまったものだろう。裁判も、時代によってだんだんと変わっていくものなんだな、と思った。あと少しで裁判員制度がはじまることだし、タイミングとしては絶妙だったかも。しかし、痴漢として告発された者に対する扱いも、とてもひどいものだということは、やっぱり知らなかった。今後、警察や裁判所に対する風あたりが強くなっていくのではないだろうか、この映画の効果として。

ところで、映画の前評判を聞いて、女性たちが痴漢を告発することにブレーキをかける意図が製作者にあるのでは、と心配したけれど、登場人物に女性目線を引き受けてくれる人が何人も出ているので、その点ではほっとした。特に、瀬戸朝香さん演じる女性弁護士が、痴漢の現行犯で拘留されている主人公に最初に面会に来るとき、語る言葉が面白い。「すべての男性には動機がある」とか。冷たい目で主人公をにらむ弁護士が良かった。痴漢なんて、絶対に許されない犯罪なんだってことが、ちゃんと映画のベースに流れていないと困る。

観客としては、主人公にどうしても同情的になって、留置されてから裁判までの流れがあまりにひどいので、怒りを覚えてしまうだろう。主人公を冤罪に追い込んだ女子中学生を「嫌なやつ」と思いそうになるだろう。実際、「ちょっと触られたぐらいで」みたいなこと、昔から言うやつはいる。しかし、うちの娘なんて、ただでさえ男性恐怖症なところへもってきて、高校に入学早々痴漢にあって、きらきらしていたのが一気によどんでしまった。それからというもの、電車に乗るのをひどくおびえるので、私の通勤時間を調節して、しばらく一緒に乗るようにした。男性恐怖症はますます進行して、つい先週も、水周りのパイプの点検に来た男性が作業を終えて帰った途端、「怖い、気持ち悪い」と泣き出す始末。本当に、冗談じゃないのだ。あんな赤ん坊みたいな顔してる小娘のお尻に触って、何が面白いのやら。やったやつ、ぶっ殺してやりたいくらいだ。というわけで、被害者側の少女とうちの娘を重ねてしまって、主人公にも同情して、とても複雑な気持ちになってしまった。すべてを見ていた観客は、少女が嘘をついていないことを知っている。主人公が嘘を言っていないことも、証人たちが嘘をついていないことも知っている。だけど、それらが無矛盾にまとまらない。人間は、過去のことを決して正確に再現することができないからだと思う。それから、人間のすることには理由がないことの方が多いのに、行動の理由をことこまかく述べなくてはならない、その息苦しさ。できれば、死ぬまで裁判には関わりたくない、加害者側としても、被害者側としても。そう強く思った。特に、電車での痴漢というのは、相手の特定も難しく、一度被害者が「この人だ」と言えば、「やっていない」ことの証明も困難だ。それはすごくよくわかった。

話題になった映画ということもあり、何か世論が形成されていくような予感もする。いい形で何か変わればいいと思う。