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推し活>流星群>『LOST10』

10月から始まる横浜流星さん主演のドラ『LOST10』が、少しずつ姿を現し始めています。

最初に発表されたのは、主演とサスペンス作品であること、そして「すべてを疑え」というキャッチコピーでした。タイトルの「10」は、物語に登場する10人の人物を意味するようで、現在発表されているキャストは横浜流星さんと小栗旬さん。ティザー映像でも10個のマスのうち、二つが開いているという見せ方になっています。

この「少しずつ全貌が明らかになる」構造には、ドラマ『最愛』を思い出させるところがあります。あの作品では、画面上のブラックボックスが物語の進行とともに広がり、登場人物の過去と現在がつながっていきました。

『LOST10』も、単純に「犯人は誰か」を追うだけではなく、視聴者が最初に持った認識そのものを少しずつ揺さぶっていく作品なのではないかと期待が膨らみます。

 

『すべてを疑え』は、SNS時代にぴったりの言葉

現在のサスペンスドラマでは、複数の謎を同時に走らせ、回を追うごとに真相を明らかにしていく構造が増えています。これは「テレビ離れ」が進む時代だからこそ、視聴者を惹きつける強力な仕掛けなのだと思います。

ドラマを見て「面白かった」で終わるのではなく、

 「あの台詞は何だったのか」

 「あの人物の行動はおかしくないか」

と考え、SNSで他の視聴者の考察を読み、もう一度見直す。

視聴する ➔ 考察する ➔ 共有する ➔ 再視聴する ➔ 次回が気になる

というポジティブな循環が生まれるのです。「すべてを疑え」という言葉は、そんな現在の視聴環境にもよく似合います。

そしてこの言葉を聞くと、私は「ミステリやサスペンスは長い間、私たちの『思い込み』を利用してきたのだ」ということを思い出します。

 

私たちは、手がかりを見ているのに騙される

『アンフェア』を最後まで見たとき、真犯人が分かった瞬間にそれまでの出来事を思い返して驚きました。

よく考えれば、さまざまな場面がその人物の犯行を示していたのです。それなのに私は、「孤高のヒロインに唯一寄り添ってくれそうな人」という期待のフィルターを通してその人物を見ていました。若くてイケメンだったことも、そのフィルターを強くしたのでしょう。

つまり視聴者は「騙された」のではなく、自分自身が持っていた印象によって、目の前の手がかりを見ないことにしていたのです。

こうした仕掛けは、ミステリの大きな魅力です。思いつく限り例を挙げていくと、

 アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』:物語を語る人物(語り手)そのものへの信頼が利用される

 『オリエント急行殺人事件』:「犯人は一人」という読者の前提そのものが揺らぐ

 映画『ユージュアル・サスペクツ』:観客が「証言された物語」を信じること自体を利用する

 映画『シャッター アイランド』:主人公が見ている世界そのものを疑わせる

優れたミステリは、単に犯人を隠すだけではありません。「あなたは、なぜこの人を信じたのですか?」と、最後には観客自身の「認識」を問い返してくるのです。

 

『LOST10』では、横浜流星という俳優自身も「謎」になる

ここが、私にとって今回の作品のもう一つの楽しみです。

横浜流星さんは、演じることについて非常に深く言葉を尽くして語ってくれる俳優です。それなのに、本人についてはなぜか核心の部分がつかみにくい。一般には「イケメン俳優」という言葉で簡単に分類されがちですが、それだけでは説明できない底知れなさがあります。

私が横浜さんに惹かれた最初の作品は『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。』でした。父親を失った青年の復讐譚の中で、普段は感情を抑えているのに、ふとした瞬間に本当に人を殺しそうな顔をする。その一方で、女性を抱きしめる場面では本当にその人を愛しているように見える。

そこで感じたのは、単なる美貌ではなく、感情を表に出さない人物の内側を身体と表情で見せる「俳優としての力」でした。

だからこそ、「すべてを疑え」という作品で横浜流星さんを見るとき、登場人物だけでなく、私たちが「横浜流星」という俳優に対して持っているイメージも、少し疑ってみたくなります。

美しい顔立ちは、もちろん彼の大きな武器です。しかし『ヴィレッジ』のようにその美しさを抑える役にも挑む一方で、作品が美しさを必要とするなら、メイクも含めてより美しく魅せることを厭わない。これは「美貌を捨てたい」ということとは違うのでしょう。むしろ、美しさも醜さも自分の身体を使った表現の一部として扱っているように見えます。

『国宝』で李相日監督から「脱力してみなさい」とアドバイスされたという話も、今後の横浜さんを考えるうえで非常に興味深い点です。

美しく見せることをやめるのではなく、美しく見せることも、美しく見せないことも自分で選べる俳優になる。その先には、若さや美貌だけに依存しない「30代の俳優像」があるのではないでしょうか。

 

小栗旬さんとの化学反応にも期待したい

そして今回、横浜さんが長く共演を願っていたという小栗旬さんが加わります。

小栗さん自身、若い頃には「イケメン俳優」として注目されながら、その枠を大胆に飛び越えてきた俳優です。『荒川アンダー ザ ブリッジ』でカッパの村長を演じたことなどは、まさにその象徴でしょう。(阿部寛さんもまた、モデル出身の二枚目から、二枚目であることさえ笑いに変えられる実力派へと転換した俳優です。)

横浜さんがこうした先輩俳優から何を吸収しようとしているのか。そして小栗さんと接することで、横浜流星という俳優がどんな方向へ変化していくのか。これはドラマのストーリーとは別の、もう一つの楽しみです。

10人の人物の正体を追いながら、同時に「横浜流星とは何者なのか」も見ていく。

『LOST10』は、作品の中だけでなく、「横浜流星という俳優自身が、視聴者にとって解き明かしていくべき謎の一部になるドラマ」なのかもしれません。

まずは、すべてを疑ってみましょう。

そして最後まで何を信じていたのか、自分自身に問い返すところまでじっくり楽しみたいと思います。

 

推し活>「選択」と「自由」Part 2

以前、「選択と自由」という記事を書きました。

「選ばされた選択は本当に自由なのか」を訴えたいと思い立って。そのきっかけである、仕事の場での「この案件を受けるか、会社を辞めるか」という二択を迫られた体験から始まり、「選択とは、拒否できることでもある」という結論に辿り着きました。

今回は、その続きです。4月に書いてあったものですが、思うところあって寝かしてありました。

前回,特に書き残して、引っかかっていたこと。人はなぜ相手に二択を迫るのでしょうか。そして、なぜ去っていく人の心は理解されにくいのでしょうか。


私は人生の中で、何度か「去る側」になったことがあります。33歳の時の離婚もそうでしたし、仕事を辞める決断をした時もそうでした。不思議なことに、引き留める側はよく似た言葉を使います。

離婚を切り出した時、元夫はこう言いました。

「それはお前のためにならない」

そして、私が別れたい理由となった過去のあれこれを説明しても、それについて反省や謝罪の言葉はなく、つんざくように「お前はどうなんだよ!」と叫ぶだけでした。「お互い気に入らないのなら離婚が最適解ですね」で王手です。

仕事を辞める時も同じです。「この仕事を受けるか、辞めるか」という形で話が進みました。今振り返って思うのは、もしあの時、

「困る」

「助けてほしい」

「あなたしか頼めない」

と真摯に言われていたら、考え直したかもしれないということです。それより前から、他の技術者が行きたがらない条件の良くない物件が私に回ってくることは、薄々察していたこともあったからです。

ところが実際には、そういう言葉は出てきませんでした。代わりに出てくるのは、責任や倫理や常識です。なぜなのでしょうか。

私は最近、その理由が少し分かった気がしています。「困る」と言うためには、相手に決定権があることを認めなければなりません。「残ってほしい」と言うためには、自分が弱い立場になることを受け入れなければなりません。ところが、多くの人や組織はそれを嫌います。だから、

「それは君のためにならない」

「それは無責任だ」

「自由とわがままは違う」

という言葉になります。

本当は「私は困る」と言えばいいのに、「君のためだ」と言い換えるのです。そこに私は強い違和感を覚えます。なぜなら、それは相手の人生を語っているように見えて、実は自分の都合を語っているからです。典型的なすり替えだと感じてしまいます。

この構図は、個人の人間関係だけではありません。芸能界でも、会社でも、歴史の中でも繰り返し現れます。King & Princeの3人が脱退した時も、私は似たものを感じました。もちろん当事者しか知らないことはたくさんあるでしょうし、それが表に出ることはないでしょう。

事務所にも事情があったでしょう。海外進出には莫大なリスクが伴います。経営者であれば慎重になるのも当然です。しかし、もし本当にそうだったのなら、

「海外進出はリスクが大きすぎる。まず日本でトップになってほしい」

と率直に語り合う道もあったのではないでしょうか。少なくとも、

「世界へ行きたい」

という夢そのものを否定する必要はなかったように思います。否、TravisJapanに許されたアクションが、なぜKing & Princeはダメだったのか。それは、誰の都合で、誰がその為に我慢を強いられたのか、というのは、もうファンなら薄々わかっていたことではありました。

ここで興味深いのは、去る側の心理です。今のNumber_iの活躍を見ると、「やはり退所した彼らが正しかった」と言いたくなります。しかし、それは結果を知っている私たちだから言えることです。当時の彼らに成功が見えていたとは思えません。見えてたら、「ツキヨミ」のお披露目の移動時や、5人最後のステージで、あそこまで泣かないでしょう。

平野紫耀さんは最近、今の状況について

「たくさんの奇跡が重なって実現している。来世に再現性がない」

という趣旨のことを語っていました。この言葉に強く惹かれました。なぜなら、そこには成功者の驕りがないからです。そして同時に、当時の不安も透けて見えるからです。おそらく彼らは、「成功する確信があったから出ていった」のではないのですね。むしろ、「このままでは駄目だ」という確信の方が強かったのではないでしょうか。


私自身の離婚も退職もそうでした。未来が明るく見えていたわけではありません。残った先に続く悲惨な人生だけが、はっきり見えていました。出ていった先は分からない。失敗するかもしれない。それでも残れない。そういう選択でした。

歴史上の多くの挑戦者も同じです。脱藩という掟破りをした明治維新の志士たちも、独立を目指した人々も、未知の未来へ飛び込んでいます。彼らを動かしたのは、「成功できる確信」ではなく、「このままでは駄目だという確信」だったのではないでしょうか。

それにもかかわらず、世間は去る人を「裏切り者」と呼びたがります。その方が簡単だからです。本当は、「なぜ去ったのだろう」と考えなければならない。でも、「裏切ったからだ」で片付ければ、相手の事情を理解する必要がありません。組織も、国家も、家庭も、しばしばこの物語を使います。ですが、その物語の中では、去った人が何に苦しみ、何を失う覚悟をしたのかは見えなくなってしまいます。

今、「自由」とは何かを改めて考えています。自由とは、正しい未来を知っていることではあり得ないと思うのです。未来は誰にも分からないからです。

自由とは、結果がどうなるか分からなくても、自分で選ぶ権利を持つこと。そして、その選択に伴う不安や責任を引き受けることです。去る人は、未来を確信しているわけではありません。むしろ、失敗する可能性をよく知っています。それでもなお、残ることで失うものの方が大きいと感じたから去るのです。

だから私は、「裏切り者」という言葉よりも、その人が何を守ろうとしたのかを見ていたいと思います。自由とは、正しい未来を当てる能力ではない。不確かな未来に向かって、それでも選ぶ勇気なのだと思うのです。

推し活>iLYs>Number_iツアー

この秋、Number_iが日本5大ドームツアー「Number_i LIVE TOUR No.III」をスタートさせます。ワールドツアーの日本公演という位置づけで、来年にはアジア・北米公演も控えているとのこと。iLYsとして、この規模のツアーを見届けられることを素直に嬉しく思っています。まあ、すさまじい倍率だということはもう伝わってきているから、ライブに絶対に行けるとは思ってはいません。それでも、彼らの掲げていた夢が叶い、それを生きている内に見届けたいという私の夢が叶うのだから。この幸福感を何に例えたら良いでしょう。

 

ただ今回、ファンの間でとりわけ話題になったのは公演内容以上に「チケット料金」でした。VIP GOLD席32,800円からB指定席10,800円まで、ステージからの距離に応じて5段階に価格が分かれています。3倍以上の開きです。かつてのジャニーズ事務所のライブでは考えられなかった仕組みで、SNSでは歓迎の声と同じくらい、戸惑いや反発の声も見かけました。
私自身は彼らの「海外進出」という夢と挑戦的な楽曲「ichiban」に刺されて応援を始めた身なので、この変化に大きな抵抗はありません。ただ、King & Prince初期時代、さらにはジュニア時代から応援してきた層が複雑な気持ちを抱くのも、よくわかります。今日は、この変化が何を意味するのか、少し自分の中で整理してみたいと思います。


私は長年、V6のライブに通っていました。ジャニーズのライブといえば、座席は全席均一料金。チケットの合否や、良席か悪席かは完全に運、という建前でした。実際に通っていた体感としては、最初のうちは良席が続くのに、だんだん悪くなっていく、というファンの間の「都市伝説」そのままの経緯を辿ったこともあります。運営に気に入られているファンばかりが良席に当たる、という噂も耳にしましたし、あながち嘘ではなさそうだ、と思わせる話も聞いたことがあります。
真偽のほどは今となってはわかりません。ただ、この均一料金というシステムには、「当日まで結果がわからないドキドキ感」というロマンと同時に、「本当に公平なのか」という拭えない疑念がずっとつきまとっていたのも事実です。運による配分は、平等であるはずなのに、実は不透明さと隣り合わせだったのです。

そもそも、アイドルとアーティストは何が違うのでしょうか。ひとつの軸は「制作への関与」です。かつてJackson 5が、大人のアーティストを目指してMotownを離れ、The Jacksonsを結成した際、彼らが求めたのは自分たちで曲を書き、プロデュースする権利でした。与えられた曲を魅力的に歌い踊る存在から、作品そのものの作り手へ。この移行は、アイドルからアーティストへの変化を語る上でよく持ち出される例です。
けれど、それだけでは説明しきれない部分もあると思います。もうひとつの軸は「消費のされ方」です。日本のアイドル文化における均一料金制は、単なる価格設定ではなく、「誰もが平等にこの人に会える」という擬似恋愛的な構造そのものを体現していました。運による座席分けは、その平等神話を守るための儀式でもあったと思うのです。対してアーティストの公演は、パフォーマンスや楽曲という「作品」そのものが商品になります。良い席とはより作品を堪能できる席であり、そこに対価が発生するのは、世界のコンサート産業ではごく当たり前の発想だと聞きます。


平野紫耀さんは、Number_i結成後、何度も「曲を聴いてほしい」と語ってきました。音楽を届けることを第一義に置いているのは間違いありません。それでも前年のライブでは、花道を設けず生バンドでじっくり聴かせる演出をしながら、最後にはきちんとトロッコでのファンサービスも行いました。
この事実が示しているのは、彼らが疑似恋愛的な要素を「放棄」したわけではない、ということだと思います。ジャニーズというアイドル事務所【から】世界へ出ていくことが、そもそもの夢だったはずです。アイドルであることを捨てたいとは、私には到底思えません。今回のゾーン制も、疑似恋愛の放棄ではなく、疑似恋愛的な体験を、運ではなく対価によって配分する方式への転換と捉えるほうが、実態に近いのではないでしょうか。

実は、TOBE設立後もNumber_iのライブはしばらく一律料金でした。2024年の有明アリーナ公演は9,500円均一、2025年のツアーも11,000円均一。今回、米大手エージェント会社との契約を機に、一気にゾーン制へと移行したと報じられています。
つまりこれは、思いつきの値上げではなく、「海外進出」という夢が、契約という具体的な実務の段階に入ったことの表れなのだと思います。世界標準のやり方に合わせることは、Number_iを「日本のアイドル」から「グローバルなアーティスト」として位置づけ直すための、避けて通れない一歩だったのでしょう。


ゾーン制には、確かにリスクもあります。経済力のあるファンとそうでないファンの間で、体験の質に差が可視化されてしまう。これは否定できません。けれど同時に、「なぜこの席なのか」の説明がつくという意味では、V6時代に感じていたような不透明さへの疑念からは解放されます。運の公平から、対価の公平へ。皮肉にも、これは別の形の”公平性”への移行なのかもしれません。
古参ファンの複雑な気持ちは、私にもよくわかります。それでも私は、これを「アイドルであることを捨てた」のではなく、「アイドルという関係性の届け方が、時代とともに変わっただけ」なのだと捉えたいと思っています。来年のアジア・北米公演で、彼らの夢がどんな景色を見せてくれるのか。楽しみに見届けていきたいです。

近況と推し活

近況報告です。

まずはひとつめ。リウマチ,再発してました。膝が痛み出したのは、てっきり老化現象の変形性膝関節症だと思い込んでいたら、日に日に痛みが増して歩行困難になったので、しぶしぶ病院に行ったら、見事に再発しているのが分かりました。数値で行くと、中程度だそうです。最初に発症した37年前とは異なり、今では治療薬があって治る病気となっているとか。投薬治療を始めて2週間。だいぶ良くなりました。

でも、ストレスホルモンのコルチゾールが引き金になる病気で、じゃあ何がストレスだったかと言えば、やっぱりコロナ禍ですね。引きこもっているのは少しもストレスにはならないタチなのですが、仕事を含めた未来が見えなくなったのはけっこう堪えていたんですねぇ。気がつきませんでした。

ただ、ジャニーズ騒動がそのダメ押しになったのは、自覚があります。書かなかったけど。もしかして師範にもう会えないかも知れない、と想像するたび、あちこちがギリギリ痛んだので、まあそういうことです。ジャニーズ騒動の設計図を裏で引いて仕組んだ方達がいたとしたら,私の呪いでみんな地獄行きですわね。楽しみなこと。

じゃあ、師範が「イクサガミ」を大ヒットさせたんだから、もう大丈夫、かと言うと、一旦落ち込んだ免疫系は、そう簡単に戻らないから厄介です。でも、この20年間、リウマチの特効薬を作って完全な寛解に持っていけるまでにした医療関係者の方たちの努力のおかげで、あと一年もすればまた山城にも登れるようになります。待ってろ備中松山城! 絶対に登ってやるからな! と久しぶりに力が湧いてきました。

 

さて、そんな中での推し活です。

日々のストレスを、美しい推したちが打ち消して、支えていてくれたことは間違いありません。ストレスフルな仕事をしつつの長患いなのに、人工関節を入れるほどには進行していなかったのは、ひとえに推したち、とりわけ29年間支えてくれた師範のおかげです。

 

今年は、楽しみなことがたくさんあって、目が回りそう。9月にNumber_iの、レーベル移籍後初のシングル発表があります。「ああ、ここまで来たんだな」と感慨深いものがあります。本当にみんなよく頑張られましたね。目下、「BUGS LIFE」に母娘して「かっこいい!」と熱狂しているところ。その前の「3XL」は免疫系の世界のお話でしたね。で、リウマチというのは、自己免疫という免疫のバグの病気なので、シンクロしてて面白いわ〜、と感心しています。

3人は映画も好き(6人は?)で、モチーフがちょくちょくMVに出てくるのが映画好きにこたえられない要素なのです。好きな人たちと好きな物を共通して持っているのは楽しいです。「GOAT」は「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の空中スケボ。「3XL」は「E.T.」の空飛ぶ自転車。「BUGS LIFE」は映画のタイトルまんまの上、口から蛾はもしかして「羊たちの沈黙」ではないですか? Number_iのMVは、総じて「インセプション」やディックのSFのような、仮想世界をベースにしています。それは、どんな思想に基づいているのでしょうか。好奇心が刺激されます。

 

10月には、横浜流星さんと広瀬すずさん共演の「汝、星のごとく」が公開となります。「見てから読む」という掟を、つい破って読了してしまいました。横浜さんがこの物語のどこに惹かれて、映画化と主演を強く望んだのか、その秘密が知りたいという好奇心に負けたのです。横浜さんがこだわっているキーワードは「選択」でしたね。主人公たちが選んだ道は、側から見ている者にとってはもどかしい思いのするものなので、役にどう向き合われたのか、さらに知りたいと思いました。高校生から15年間に渡る男女のお話、ですよね? 特報を見たら,本当に2人とも高校生だったり、30代のカップルだったり、に見えるので、前から思っていることですが、役者さんというのはある種の妖、だと思うのです。尊敬します。映画、楽しみです。

あ、そうそう。SixTONESの松村北斗さんが相棒役で出ているのですね。この間、「秒速5センチメートル」を劇場で見て感動したから、嬉しいです。「正体」の森本慎太郎さんに続いてですね。藤井道人監督は、「最後まで行く」の師範から、「ヴィレッジ」の作間龍斗さん、「青春18✖️2」の道枝駿佑さん、とジャニーズからの起用が続いていて、それがもうみんな素晴らしいのです。言ったら何だけど、道枝さんの役なんて,実生活で会ったら超苦手なタイプなのに「こんな可愛い子だったら、まっ良いか」と思わせるところが人徳&演出力ですわね。先が楽しみです。

 

10月には、岩橋玄樹さんの「#恋ルビ」2シーズン目があります。これは嬉しい。本当に頑張りが認められて、報われて、2026年は良い年です。このドラマ、友情と恋愛の境目が、揺れるレースのカーテンのように曖昧、というオープニングからしておしゃれ。それを嫌らしくも不自然にもさせないビジュアルと佇まいの主演2人。これがとても良いのです。家族=男女の結婚をベースにした核家族、という原則が崩れつつある現代で、いち早くドラマがこうした今までにない形を模索するのは、重要な意味があると考えます。楽しみにお待ちしています。

 

12月には、師範の映画「SUKIYAKI」が公開となります。何と、大河ドラマ主役の3人揃い踏みのチームではないですか。これって、いつ撮った映画でしたっけ。「イクサガミ」の撮影の前後でピアノのレッスンをしていた記憶があります。嵯峨愁二郎の長めの髪が、そのままの長さです。セクシー。ピアニストにあるまじき発達しまくった上腕筋と広背筋と大胸筋は、何とか隠しきれましたか? 戦わない役が来た!と喜んでおられた記憶があるので、私も久々に戦わない役を楽しもうと思います。

あ、そうそう。Xで清野菜奈さんの話題を出してましたね。「イクサガミ2」の匂わせだとしたら、台湾のあの人か、会津のあの人か、どちらかでしょう。(「イクサガミ」も掟を破って読了) 好きな俳優さん女優さんが山ほど出てくるのもポイントの高いドラマです。因みに祇園三助役の遠藤雄弥さんは映画「男神」の主演をされていた上、「永遠の0」でも印象的な役をされていました。おかげでドラマでものすごい既視感があったので、こういうところもポイント高いです。

 

というわけで、未来が明るく見える今日この頃。人生悪いことばかりではない、というパターンワードも、私が言うと重みが増しませんか?そんなことない?普通?まあ、でも紛うことなき実感なので、推しのいる世界は美しいし、推しとともにある時間は愛しいと痛感する次第です。

では、また。

推し活>tiara>King & Princeサブスク解禁

King & Princeの全曲がサブスク解禁されました。まずは、King & Princeのお二人と、動いてくださったスタッフの方々に感謝します。永瀬さんも髙橋さんも、ずっと頑張ってここまでに漕ぎ着けられたのでしょう? お疲れ様でした。みんなの、今よりも若い声、染み入ります。ありがとうございます。

 

さて、音楽配信の時代において、サブスク解禁は珍しいことではありませんが、今回の解禁には、販路拡大以上の意味があるように感じています。なぜなら、King & Princeは解散したグループではないからです。

活動を続ける2人がいて、別の場所で新しい挑戦を始めた3人がいて、さらにその前には別の選択をしたメンバーもいます。V6のように物語がきれいに完結した後のアーカイブ公開ではなく、今も進行中の物語の途中で、過去の全作品が誰にでも開かれる。その意味は、想像以上に大きいのではないでしょうか。完結物の公開には、古い映画を見て往年の映画スターに恋をするようなロマンがありますが、この途中での公開は、それ自体が物語の一部、という気がしてなりません。

私はこの状況を見ながら、ふとJackson 5のことを思い出しました。

Jackson 5もまた、家族という強い共同体から始まりながら、それぞれの進路が分かれたグループでした。マイケル・ジャクソンたちがJacksonsとして新天地へ進もうとした時、人気メンバーのひとりだったジャーメインは残留を選びます。当時は気まずさや距離もあったと言われています。

けれど時間が経つにつれ、それぞれが別の場所で実績を積み重ね、メンバー以外の兄弟姉妹たちも含めて活動を広げ、最終的には「誰が正しかったか」よりも、「あの家族が何を生み出したか」という形で語られるようになっていきました。

もちろん、背景も時代も違います。同じ未来になるとは限りません。ただ、ひとつ共通していることがあります。それは、時間が経つほど、人は勝敗よりも作品を見るようになる、ということです。

King & Princeのサブスク解禁も、少し似た現象を起こすかもしれません。

これまで初期の楽曲群は、CDを持っている人、当時をリアルタイムで追っていた人たちに比較的閉じた存在でした。しかしサブスクになることで、その入口が一気に広がります。海外ファン。脱退後に興味を持った人。Number_iから遡る人。SNSやショート動画で知った若い世代。そうした人たちが、前提知識なしに、ただ作品として曲を聴くことになります。すると、面白い現象が起こるかもしれません。

「このグループ、思っていた以上に面白い」

「今につながる表現が、もうここにある」

そんな再発見です。

特に海外志向の強かった楽曲や、ダンス・ボーカル面で挑戦的だった作品は、当時とは違う文脈で受け取られる可能性があります。Magic Touchなどは、絶対に埋もれさせたくない、リバイバルしたいくらいの名曲だと、個人的には思います。

そして、その時に初めて、「King & Princeとは何だったのか」という問いが、ファンの外側から投げ返されることになるでしょう。大事なのは、今回の解禁が過去を消す行為ではないことです。むしろ逆です。

過去を丸ごと見える場所に置いた上で、今も活動している人たちが未来へ進む。しかも、ライブステージ上で彼らがパフォーマンスする過去の楽曲が、明らかに進化していくことで、彼らがどれほど優れた表現者であるか、天下に知らしめてさえいます。これは大変なことです。

芸能の世界では、分岐した道を無かったことにしたり、過去を封印したりする方が簡単です。実際、アイドル界では忖度によって映像が消えて人目に触れなくなるのは普通にありました。ですが今回は、少なくとも作品については、「全部ここにあります。好きに聴いてください」という形になりました。

そこにはある種の覚悟を感じます。

もちろん、ファンの感情は簡単ではありません。

「あの頃が好きだった」

「今を応援したい」

「全員を応援したい」

それぞれ違う時間を生きています。けれど、サブスクという仕組みは、その感情の違いを少し脇に置いて、まず作品を並べます。再生ボタンを押した人が、どんな物語を読むかは自由です。

私は、この変化はとても現代的だと思っています。昔のアイドル文化は、「今この瞬間を共有すること」に価値がありました。昔の再生に限定的なのも、ある程度は合理性もあったかも知れません。

でも今は違います。

作品は時間や所属を超えて残り、誰かが後から辿り直すことができます。そして、その時に初めて見えてくるものがあります。脱退も、残留も、成功も、葛藤も、全部含めてひとつの歴史だったのだと。

サブスク全解禁とは、単に曲が聴きやすくなることではないのでしょう。それは、作品が人の手を離れ、未来の誰かの解釈へ渡される瞬間です。

King & Princeの物語は、まだ終わっていません。

だから今回の解禁は、懐かしむための公開ではなく、これから先の意味を書き換えるための公開なのだと思います。

推し活@iLYs>祝Atlantic Records契約

今年最高のニュース。Number_iが、アメリカの名門レーベル、Atlantic Recordsと契約しました。もう既に,あちこちのSNSで情報が溢れかえっています。感想が遅くなってしまいました。

Atlantic Recordsは調べたところ、何と、アレサ・フランクリンとレッド・ツェッペリンの名前が連なっているじゃないですか。私の青春ど真ん中! これ、本当に? それだけではなくて、他にも数多のアメリカ音楽史を代表するアーティストたちを擁してきたレーベル、とのことです。単に規模が大きいというのではなく「時代の発生源」と言う方がしっくり来るようですね。黒人音楽、ロック、R&B、ヒップホップ。半世紀以上を生きて、洋楽を浴びるほど聴き込んだ人間にとって最高の場です。その名前の隣に、これからNumber_iが並ぶんですね?

King & Princeからの脱退が発表された後に、「King & Princeには、日本人のまっすぐな美しさを世界に轟かせる力がある」と、天から言葉が落っこちてきました。それが為されないと日本はもうお終いだ、ぐらいの勢いで書いたものですが、こうやって全てがあるべき所に進んでいくようで、心底ほっとしました。本当は、Coachellaに出演した時点で、もう叶ったつもりでいたのですが、進撃はまだまだ続くのが予告されて、iLYsの1人としましては、兜の緒を締めるような気持ちです。

日本人アーティストで、アメリカに進出して真に成功した人はまだいない、とよく言われてきました。それについては色々分析されていて、基本的な戦略ミスとして、アメリカに寄せ過ぎるからだというのがありました。ただ、食を見てもわかる通り、慣れない異質なものは、本質的に良いものだとしても、受け入れるのに時間がかかるものです。今、ネットワーク社会も熟したこのタイミングで、Number_iが日本らしさを捨てずに進出するのは、もしかして奇跡的なタイミングなのかも知れません。何だか、すごい未来が開けている予感しかしません。

3人が、音楽的にも、人としても、日に日に魅力を増していくのをずっと見続けてきた身としても、今回の躍進は誇らしい限りです。そう。一人一人が際立っている上、合わさった時の化学反応が、もう、ね。それを世界中の人に見てもらえると思うと、嬉しさと期待感でいっぱいです。

今回の契約によって、Number_iの楽曲やパフォーマンスは、これまでより遥かに大きな流通網に乗ることになるわけですね。これまでピンと来ていませんでしたが、SpotifyやTikTok、YouTube Shortsなど、現代の音楽はアルゴリズムによって世界へ拡散されます。そして、Atlantic Recordsは、その巨大な流れに接続するためのノウハウとネットワークを持っています。その規模感は想像を遥かに超えていました。

もちろん、契約したから直ちに世界的成功が約束されるわけではないのでしょうけど、それでも、「挑戦する土俵」に立ったこと自体が、日本の男性グループとしてはかなり歴史的な出来事だと思います。

3人からは、それでも

「置いていかない」
「寂しくさせない」

そんな言葉が、何度も繰り返されていました。

普通なら、「世界へ挑戦します」「新しい夢を叶えます」と語りそうな場面です。けれど彼らが先に届けたのは、ファンへの安心なんですね。そこがまさしくNumber_iです。

King & Prince脱退発表から、TOBE合流までの7ヶ月。あの期間、ファンたちがSNSで綴った、悲痛な声はメンバーに届いていたし、それが未だにファンの後遺症になっていることも、ちゃんと理解して、配慮してくださっているのですね。

2023年7月7日、TOBEへの移籍配信で、平野さんの、

「明日から会えない、じゃなくて、今日から会えますから」あの言葉と笑顔が強烈に脳に焼きついているのですが、今回のコメントでまた脳内再生されました。

ここからの道も、やはり共に進撃、ということで良いんですね?  

ところで、ファンミーティングですが、自分に課した掟通り、申し込みませんでした。会いたかったけど掟ですから。師範や横浜流星さんのも申し込まなかったし、ここは初志貫徹ということで。参加された方のレポートを楽しみにお待ちしています。

Atlantic Recordsとの契約、おめでとうございます。ますますのご活躍をお祈りしています。

 

 

推し活>「選択」と「自由」の話

とても長くて、しかも重い話です。ご注意ください。

 

私は以前、仕事の場で「この案件を受けるか、それとも会社を辞めるか」という二択を提示されたことがあります。コロナ禍が始まって、着工に影響が出始めた頃です。あまりに条件が酷い現場だったので受けたくなくて、次善策を様々提案しました。それらが理由もなく全部却下されたので、「では辞めます」と答えました。すると、「え?待って待って」と。本当は一択で、私が言う通りに従うシナリオだった訳ですね。正しい日本語でこれは「脅迫」と言い、相手に悪い未来を想像させて不本意なものを選ばせる行為です。そして、脅迫に屈した時の受益者は脅迫者のみであり、屈した者は不利益を「自分で選んだ」事にされる、という仕組みです。結局、脅迫者に転じた人たちとはもう仕事をする気になれず、きっぱりやめました。

社会でもSNSでもよく、「自分で選んだのだから自己責任だ」という言葉が使われます。確かに、契約や進路選択など、多くの場面で人は自分の判断に責任を持つべきだとされています。これは法的にも基本原則であり、「私的自治」の考え方に基づいています。

ただし、この原則には前提があります。それは、「自由に選べる状態であったかどうか」です。

たとえば民法では、強い圧力や誤認によってなされた意思表示は無効や取消の対象となり得ます。また労働の場においては、使用者と労働者の力関係の非対称性が考慮され、「退職強要」や「不利益変更」は厳しく制限されています。つまり、形式的に選択していたとしても、その背後に過度な圧力があれば、それは「自由な選択」とは見なされない可能性があるのです。


ここで思い出すのが、小説『ソフィーの選択』です。ナチス収容所で、母親であるソフィーは「二人の子どものうちどちらか(ガス室送りにする)一人を選べ」と迫られます。選ばなければ、二人とも殺される。選べば、一人は助かるが、もう一人は確実に死ぬ。

この場面は、しばしば「究極の選択」の象徴として語られます。しかし本質は、「選択の極限」ではありません。——選択の形をした強制です。

ここには、選ぶ自由は存在しません。どちらを選んでも救いはなく、責任だけが個人に押し付けられる構造になっています。

これほど極限にまで構造を単純化すると、見えてくる問いはこうなります。

「選ばされた選択には、本当に責任は発生するのか」

この問いは、決して極限状況に限ったものではありません。私たちの日常や、社会のさまざまな領域にも、形を変えて現れています。

たとえば、芸能という世界もその一つです。

表現者と事務所の関係は、契約に基づくものであり、事務所には経営判断の自由があります。活動方針、露出、作品の方向性などについて、一定の制約が課されるのは合理的です。特に海外進出のような大きなプロジェクトは、莫大な投資とリスクを伴うため、慎重な判断が求められるのも事実でしょう。

一方で、表現者にとっては時間が有限です。挑戦できる時期は限られており、機会を逃すことはキャリアに決定的な影響を与えます。ここで両者の論理は衝突します。事務所は長期的な安定とリスク管理を重視し、表現者は短期的な挑戦と飛躍を求める。この時間軸の違いが、「従うか、去るか」という構図を生み出します。

このとき提示される「選択」は、一見すると二択です。しかし実態としては、「従属」か「離脱」かという、非常に非対称な構造になっている場合があります。従えば可能性は制限され、離れれば基盤を失う。どちらを選んでも大きな代償が伴う状況です。

ここで改めて問う必要があります。それは、本当に「選択」だったのか。

この問題を考えるうえで重要なのは、「選べること」ではなく、「拒否できること」です。もし、ある選択肢を拒否した瞬間に、生活やキャリアが著しく損なわれるのであれば、その選択は実質的には強制に近づきます。先ほど言った「脅迫」ですね。逆に、拒否してもなお別の道が現実的に存在するのであれば、それは自由な選択と呼びうるでしょう。つまり、選択とは単なる分岐ではなく、「拒否権の有無」によって定義されるものです。

この視点に立つと、「選んだから自己責任だ」という言葉の輪郭が変わって見えてきます。それは、自由な環境での選択に対しては妥当であっても、強制に近い状況での決断にまで適用されるべきものではありません。そして、推し活という文脈で考えたとき、この問題はさらに重要な意味を持ちます。

私たちはしばしば、「あの人はこの道を選んだ」と語ります。しかし実際には、その選択がどれほど自由だったのかは、外からは見えにくいものです。だからこそ、見るべきものは結果だけではない。——その人が、自由に選べる状態にあったのかどうか。

私の大切な推したちが「選んだ道を正解にする」と言うたび、切なくなるのは、本当のところが見えないからです。見えないし、最後までわからないのでしょうし、わかったところでしてあげられる事も少ないのでしょう。せめて、「自己責任」という言葉で追い詰めないように。自由に、幸せに、健やかに、と毎日祈るのみです。