DVD>舞台『大正四谷怪談』 主演 藤原竜也

この「大正四谷怪談」は、「身毒丸」の作家 岸田理生さんが、藤原さんのために書き下ろした戯曲だと聞いた。確かに、近代の物語としては、17歳で10歳年上の妻がいるという設定にはとても無理があるけれど、それなら納得だ。
その時のキャッチが「民谷伊右衛門17歳、若くて、綺麗で、格好いい。でも、こんな悪い奴見たことない」だという。これが、怖くて綺麗な藤原さんの顔写真と一緒に印刷されてポスターになっている。だけど、そのコピーから想像されるお話とはイメージが違った。もともとの四谷怪談とも雰囲気が違う。恨みを晴らしに来る幽霊はいない。ただ、ひたすら悲しい愛の物語だ。

藤原さんに対する「性別年齢を超えた色気がある」という評論は、この時のものだろうか。まったく同感だ。女形の方がお岩を演じていて、こちらの色気も大変なものだったけど、伊右衛門のそれは凄みすら帯びて鬼気迫るものがある。俳優としての藤原さんへの評論の中に『聖なる悪』というキーワードを見つけた。確かに、役柄はそういうのが多い。またそれが素晴らしい。その代表格が、この伊右衛門だと思う。それについて、ちょっと不思議に思うことがある。来年の舞台のチケット欲しさに、娘名義でファンクラブに入ったところ、そこのサイトにファン限定の動画があるのに気づいて、全部見てみた。「天才」という巷での評判だけは聞き知っていたし、夜神月や野田伍郎のイメージも強力だったから、気難しくて怖い人だろうと何となく予想していた。ところが、それに反して動画の中の人は、私の目にとても無邪気で可愛くて優しかった。エクボフェチだった私が、八重歯フェチになりそうな勢いだ。ここまで役とそれ以外とのギャップがある人って……私の経験が少ないせいだろうか、思い当たらない。それで思う。継母に恋をする少年からはじまる『聖なる悪』を演じさせたクリエーターの方たちは、一体、この人の何を見てそう思い立ったのだろう。その人たちの目の中に入り込まない限り、それは私には到底知り得ないことだ。

かつて、我がアイドルについて、優れたクリエーターの方たちは共通して『死と再生』の物語を直観するのだと書いたことがある。一体、製作者の方たちが彼の何を見るのか、それはわからなかったのだけど、演じてみればそれが大正解なのは、私にもわかる。彼が演じると、死がすべての人間に平等なものであり、生き物はすべて大小の死と再生を繰り返しながら未来へと繋がっていることがリアライズされるからだ。
それと同様に、優れたクリエーターは、藤原さんに『聖なる悪』と、孤独と、エロティシズムと、そして狂気を直観するようだ。それらは一体、見るものをどう変化させるのだろう。

私は、人間が、生き物としての理からはずれることはないという考えなので、単独で切り出した絶対的な「愛」も「正義」も「善」も「悪」も信じない。「ハムレット」を読んでいると何だかいらいらするのもこのせいだ。この当たりは、ドーキンス等の生物学からの影響だろう。それらは、あくまで現実の、ひとつのフィールドの中で成立する何かなんだと思う。愛について言えば、親子であれ、男女であれ、その愛には生物としての戦略が含まれていると思っている。個体を維持することと、種を維持することと、両方の戦略だ。だから、愛は終わるんだと思う。全き無私の愛や、永遠に続く愛は物語の中にしかないし、だからこそ繰り返し物語られるのだと思う。皮肉だけど。
この物語のお岩は、その「全き無私の愛」の女性だ。彼女の自我は、地獄に落ちることによって永遠に続いていくから、その愛もまた永遠である。なんて救いがないんだろう。終わらない愛には、救いがない。終わらない自我にも救いがない。伊右衛門の悪……他者のいのちに何の感慨もない、ここまでの悪に、終わりがあるんだろうか。

そんな伊右衛門を見ていて、思い出したことがある。ずいぶん前に、テレビでテロリストの裁判の模様を見た。被告は、爆弾テロでおびただしい数の人を殺傷した男性で、まだ若く、とてもきれいな顔をしていた。被告席に座るその表情はあくまで明るく、無邪気で、透明な聖性すら感じさせた。その人に判決が言い渡される時、その美しい顔が歪むことを予想して見つめたけれど、死刑判決の瞬間でも、その表情に一点のかげりも見つけることが出来なかった。「この人には、悪いことをしたという意識も、死刑が怖いという意識も、まったくないんだ」と悟った。それは、人間なんだろうか。よくわからない。
だけど、罪悪の観念をまったく持たない存在は、決して架空のものではなく、現実にあるものだということだけはよくわかった。それが、どれくらいの確率で存在するのかはわからないけれど、身近に出会うほどには多くなく、それでも物語の登場人物に出てくるくらいは多い、ということだろう。ただ、伊右衛門の悪さというのは、生来のものというよりも、少年特有の悪さに見えないでもない。自己中心的なくせに、周囲のものの愛情にどっぷり依存しているという意味で。
アメリカ国内で起こる年間の暴力犯罪の半数は、24歳以下の男性が起こすそうだ。日本もおそらく事情は同じだと思う。多少の違いはあれ、どの時代のどの国でも変わる事のない、普遍的なものなのではなかろうか。少年を描くというのは、そんな熱病の季節を描くことと同義である。

その中でも、性にまつわる道徳観は、時代によってずいぶん変化してきたと思う。私が生きている間だけでも、かなりのものだ。最近、娘に、中学生で性体験がある子なんているの?と聞いたら、「クラスに何人もいる」と即答された。「時代が変わったなあ」なんて台詞を自分が口にする日が来ようとは思いもしなかった。私の中学生時代、同級生同士のカップルがそういうことになったのが発覚して、男女交際禁止令が敷かれたことがあった。たとえ兄弟姉妹であっても、学内はおろか学外でも男女で並んで歩いてはいけない、手紙も電話もだめ。エトセトラ。昭和ですらこの有様だったのだから、大正時代の性のタブーは、いかほどのものだったろう。物語の背景の暗黒部を形成しているのが、愛と性にまつわるふたつの殺人事件だったことを考えると、それは生死に関わるほどのタブーだった、ということなのだろう。しかも、妻が娼婦をして夫を養っているカップルが二組も出てくる。これなどは、今の時代でも無理だ。実の兄と妹の恋も。ただ、こうやってひとつの物語として見てみると、彼らは不道徳な人間というより、運命のエアポケットに落ち込んだ、不運な人間に見えてしまう。これが言いたかったのだろうか、作者は。

身毒丸」でも、それぞれの感情を阻害して縛りつけている「イエ」の存在が重かった。富国強兵をベースにした家族制度によって、一番傷つけられたものは、男女の愛と性であるという主張、と受け止めたら考えすぎだろうか。それを考えてみると、私が今まで見た蜷川さんの舞台が、近親相姦が絡んだものが多かったのは、ただの偶然ではないのかも知れない。

例によってまとまりがないけれど、このあたりで。