神の不在について

神の不在について  2002.5.6

    神の不在については、ずいぶん昔から書きたいと思っていた。ただ、一般的な無神論者のイメージと混ざる恐れがあるので、書き方をいろいろ考えていたら、あの、ジャンボ機をハイジャックした、ニューヨークのテロ事件が起こって、もう、しばらく何もかも嫌になってしまった。報復を国民に訴える演説で、大統領が「GOD」と言ったからだ。どうしてそれで嫌になってしまったかというと、ずっと以前に、日本に原爆を落とすための米国民に対するキャンペーンを集めた「アトミック・カフェ」の中で「GOD」という言葉が散りばめられているのを見て、アメリカ人を統べる神様は、何万人もの日本人が10万度の熱で生きながら焼かれることを望んだ、というのがわかってしまったからだ。人間が選択したことの責任を、どうして「GOD」になすりつけて平気なんだろう、と・・・。日本のテレビ番組にアメリカ映画の吹き替えしたものが登場するようになった頃、何度か見たことがあるキリスト者の受難物語などは、とても違和感を覚えるものだったが、それがアメリカ自身に、清教徒が信仰の自由を貫くために築いた国だという、半ば被害者意識に裏打ちされた意識があったせいなのか、と思う。・・・・・・神を信じない人は、神の罰をも信じず恐ろしいものがないので、反社会的なことをする、というのが信仰を持った人が多く陥る誤謬である。が、世界史を紐解けば、人間というのは宗教の大儀を担げば、どんな悪逆非道も「善きこと」だと信じてやってのけるものだということがわかる。十字軍は、「足首まで血に漬かって」異教徒の金銀財宝を強奪し、子供たちを火であぶって食べたと記録されている。・・・その「アトミック・カフェ」を見て、他にもいろいろ考え抜いて、自分は生涯「神の実在は一切信じない。だが、人間の神性は信じる。」と言い続けようと決めたのに、テロから起こった一連のことを見て、ひどく無力感を覚えて、嫌になってしまったのだった。

    だけど、いつまでも宿題を残しておくわけにもいかない。自分で勝手に決めた宿題ではあるが。ところで、「神様なんかいない」と言い、神の不在を主張しても、その人のものの考え方が、前提として神の存在を肯定している立場というものがある。ずいぶん前に、自然科学が、無神論の立場を取っているように見えて、実際は神の遍在を前提としている、という記述を読んだことがあるが、「ほほう」と思った。言われてみればそうなのだが、気がつかなかった。哲学者というのは面白いことに気がつく人たちだ。・・・その「前提としている物の考え方」という発想は、あらゆる場面で応用が利く。いつぞや、当時の総理大臣が「日本は神の国」だと発言して騒然となったことがあった。言うまでもなく、明治から敗戦まで、日本人は帝という神のもとの臣民であると考えられ、敗戦によって何もかもが一変してしまった。その歴史が「神」というキーワードに対する独特の感情を生んで今日に到っている以上、その発言に対して反感が起きるのは仕方のないことだったと思う。ただ、日本人のメンタリティとして、個々人の主観を離れた、絶対座標としての価値基準が存在している、という漠然とした意識が共有されていることを、「神の国」と表現するのはそれほど的外れではないと私は思う。「どうして○○してはいけないんですか」「どうして○○しなきゃいけないんですか」という問いが発せられるのを許さない土壌が、「神の国」でないとは私にはどうしても思えない。ただ、「前提としての神」を持っている国民は、同時に世界的に珍しいほどの無信仰の国民でもある。この当たりが興味深いところだ。

    これもずいぶん昔にパソコン通信に書いたことだが、神が実在するかどうかは問題ではない、神という概念が、間違いなく人類普遍であること、これが重要なのだ、ということ。神を信じようと信じまいと、神とは何かを、ともかくみんな知っている。これこそが、実在する神ではなく、人類に分かちがたく付加された神性の存在を証明する・・・と。これを当時言った背景には、ネット上の喧嘩の際に、相手が権威を次から次へと持ち出すのが鬱陶しくなったから、ということがある。人間がいかに権威あるものに弱いかは、パソコン通信時代に身にしみたし、その権威の多くが、他者の頭をなぐる棍棒として使われるということに憂いも感じた。特に、他者を踏みにじることを正当化し、人間を枠に押し込んで窒息させ、一個の人間として地に足を踏ん張って立つ誇りを奪う「権威」としての神は、いない方がいい。ボランティアをしていると、よく誤解されたのは、私が何がしかの信仰を持っているのでは、ということだったので、それも頭のどこかにあったのかも知れない。

    話は変わるが、「自己評価について」の最後の方に、他人がもたらす評価を絶対座標だと思う必要はどこにもない、と書いたが、「絶対座標ではない」、というのは、それ自体が何の力も価値もない、という意味ではない。絶対座標ではないが、相対座標では厳然としてあるのだ。他人を神様だと思う必要はないが、やはり自分と同じく神性を共有する存在として、その評価にもそれだけの重みを認めて、自分の進む方向を「自分で」決めて行く、というのが正しいやり方ではないか、と最近思うものである。

    つづく。

    2003年2月14日(金)
    私が「神の不在」について、とことん考えるようになったのは、夫の一言がきっかけであった。彼と結婚する前、私はとあるパソコンネットの掲示板の主催者をしていたのだが、あまりに人間関係のトラブルが相継ぐので、とうとう言葉で戦うことを決意したのだった。これをはじめてしまうと、あとはもう破局まで進むしかないのは、あらかじめわかっていたから、・・・ずっとそう考えていた以上、事務局からの自粛勧告などは、結局きっかけに過ぎなかったのかも知れない。・・・その日が来るまで、私は「言葉にする」という、私の最も重要な役割と任じていることを精一杯果たそうと思ったのだった。これについては、夫がいろいろアドバイスもし、励ましもしてくれたのだが、最終的には自分で決めた。そして、その宣言をした最初の文を書いた時、参加者の少なくない人が私は気がおかしくなった、と思ったらしい。だが、夫は、私の文章に対して、人類最初のインテリゲンチャーが自力で悟りにたどりついた時の境地というのは、たぶんこういうもんだったろう、という主旨のメイルをくれた。ずいぶん大袈裟だけど、そう言われると、私など比較する気にもならない大きな苦悩を抱いて、何ごとかを広く訴え続けた人など、歴史に大勢いるんだ、と心強く思ったものだった。そして、それまで誰も言わなかったことを言おうという決心をしたんだから、恐いのは当たり前だ、と逆に開き直った。磔にならない保証があるだけでも、相当ましじゃないか・・・。そして、その最後あった結びの言葉がこうだ。「涼子さん、一緒に神様に喧嘩を売りに行きましょう。」

    話は変わるが、「前提としている考え方」の中で、私が仮想敵として見ているのは、「完璧な人間」というイメージが、あたかも現実に出現する可能性のある実体であるかのように受け止められていることだ。これがあるとどうなるか、というと、人間が「引き算で」評価される。つまり、「あの人の欠点は・・・」という誹謗中傷が、どんな立派な人に対しても無限に有効になるのである。それに対する弁護として「完璧な人間なんていません」というのがパターン化している。しかし、その対象の人が優れた人間であることも、にも関わらずある関係においてまずい面の改善を暗に求められている、ということも、同時にどこかへ行ってしまっている。改善を求められている事自体の妥当性が争点のプチ裁判で、弁護人が「この人も完璧ではない」と言うのは、弁護人自身が被告を有罪だと言い放ったも同然だ。私が被告だったら、即刻この無能な弁護人を解雇することであろう。どうせ弁護するなら、「この人の欠点がどうの、なんて思い上がったことは言わずに、『私は』この人のここが嫌なんだ、と言うべきだ」と言って欲しい。どうせ、人に対して負の感情を抱くのは、抱く人個人の問題が出発点であるのに違いないのだから。しかし、「この人の欠点は」という指摘が、相手の成長に対して責任を負っているのではない限りとても傲慢に聞こえる、というのは、私ひとりの感性に過ぎないのだろうか。

    それにしても、「完璧」などという概念自体が、数学上の「ゼロ」や「無限」と同様、問題を解くための思考上の道具に過ぎないのに、現実に人間それぞれを測るための基準になっているのが、どうにもこうにも不快だ。ほとんど、「あなたの身長は、無限の何分の一ですか? ゼロの何倍ですか?」という問いの無意味さに等しい馬鹿馬鹿しさを感じる。人間が、そういう概念を生み出して思考を飛躍的に発展させて来れた、ということには素晴らしさと大きな可能性を感じるが、説明概念に過ぎない物にがんじがらめになるのは愚かしいことだ。また、この「完璧」という概念は、自動的に価値の一元化をもたらす。意味もない人間の序列はここから生まれるのだと思う。ここで戻ると、私が「神の不在」を信じている、というよりも、「神は不在でなくてはならない」と思う理由は、それがまさしく「完璧な人間」のイメージであるからだ。神は間違いをしない、人間は間違いをする、それは神が完全で、人間は不完全だからだ・・・こういうのが、私の嫌いな「文学的説教」というものだ。ロジックのように見えて(見せかけて)、ロジックじゃない。人間は間違いをする、というか、自分や他人の過去を振り返って「間違っていた」ということをたくさんする。それは、人間は知っていることと知らないことがあり、自分が知らないということを大抵の場合知らないし、未来はカオスを含んでいるし、従って現実認識や未来の予測に限界があるからだ。ここで「神」だ「完全」だのを持ち出されるのはとても迷惑なのだ。自分達の思い描く未来を、自分達の意志で生み出そう、という意欲の邪魔になる。ただ、仮想としての「神」、つまり人間自身の神性は、これから作り上げるべき未来の設計図としては、大いに役立つとは思う。人間は間違う。そして、間違いを未来に生かすことができる。「完全」は、いくら高いところに昇っても手につかめない星のようなものであるかも知れない。だが、星があるから、星をつかみたいと願ったから、人は思いがけないほど高いところに昇ることができた・・・そう思う。