『ビッグ・フィッシュ』DVD

週末も仕事だった。
建物が竣工した後の仕事なので、土日が一番忙しいので、私も社員にお付き合いすることにしたのだった。
週末には娘と映画館に出かけるのが習慣だったが、DVDで我慢。
ティム・バートンもので見損なっていた『ビッグ・フィッシュ』を見ることにした。

映画が封切になった時、あらすじを聞いた限りでは、大して面白い話とは感じられなかった。
現代のほらふき男爵とでも言うべき、荒唐無稽が売りの映画だろう、と。
ティム・バートンのことだから、ストーリーがどうあれ、映像的に楽しいに決まっている、とは思ったけれど。
もともと、強烈なテーマを表に出すような監督ではないと思う。
ただ、『あわせ技』とでもいうか、作られた映画をたくさん見ていくと、『人間の想像力は無限で素敵だ』という、底辺を流れるテーマの存在は感じる。

ひとつ見落としていた気がするのだけど、
アメリカでは、楽しい作り話をする人間は、決して輪の中で嫌われないということ。
息子が、自分が生まれた時の父親の作り話を嫌がり、事実が聞きたいと言うのに対して、
医者が、その『事実』を語ってから、言う。
『事実はつまらない。そんな話と、お父さんの作り話、どっちが楽しいと思う?』
楽しいか楽しくないか、という価値観が彼の国の人ほど重みを持っていない日本人には、
高い地位にある医師がそれを言うのが奇異に感じる。
日本ではこういう『楽しい』人は単純に仲間はずれになって終わりだと思う。

パソコン通信の頃、ショート・ショートの時代劇を書いたことがある。
自分の体験をそのまま語って、問題提起をする、という方法では絶対に伝わらないことを伝えるため、事実の構造をベースにして、それを隠して、あえてお話を作ったのだったが・・・・・・。
『つくりもの』の安心感だろうか、いろいろな感想を抱く人がいて、とても興味深く楽しかった。
なるほど、これがストーリーテラーの醍醐味か。
しかし、中には、「そんな作り話、読みたいとも思わない」と突っ込む人もいた。
読みたくないものは黙ってスルー、が鉄則のネットで、
『読みたくないから書くな』は反則だったが、とても感情的にリアクションするので逆に面白かった。
日々、自分の『解釈』という『作り物』を『事実』と主張するタイプの人ほど、
純粋にフィクションだとことわった『何かが仕込まれているもの』に敵意を持つものだ。
その時、それを学習した。
もちろん、明るいお話を書いていたら、もうちょっと反応が違ったかも(汗)

主人公エドワードの作り上げる世界は、まるでおもちゃ箱のようだ。
明るく、雑然として、サプライズがいっぱいで、きらきらして、楽しい。
こっちが事実だったら、どんなに楽しいだろう、と心底思う。
それは、だけど、事実をアレンジしてできた世界だということが、ラスト近くなってわかった。
エドワードは、一見地味な事実にきらきらしたトッピングをして
世界の見え方を変えただけのかも知れない。
そのエドワードに、堅物の息子が始めて語る作り話、
エドワードの『死に方』の話。
死こそは、きらきらトッピングすべき、物語なのかも知れないのに、
私なんて、やっぱり『正面から向き合え』ってやってしまうな。
一人称の死はそれでいい。
だけど、二人称の死は、単純な『事実』じゃ駄目なのかも。
映画を見て初めてそう思った。

中途半端だけど、ここまで。