『ミュンヘン』

とても重い映画だった。

ほどよい恐怖は娯楽になる。
ほどよい残酷さも娯楽になる。
ほどよい悲しさは、もちろん上質の娯楽になる。
だけど、息苦しいほどの憎悪と、不条理と、酷い死と、絶望は・・・・・・?

楽しんでいるほどの余裕はないし、終わってから口を開く気にもなれない。
だけど、やっぱり見て良かったと思う。

ところで、このミュンヘンでのテロ事件の当時、私は中学三年生だった。
テレビで、選手村がジャックされ、イスラエルの選手が11人、パレスチナゲリラに人質にとられ
銃撃戦の末に全員が死亡した、とニュースで聞いた。
正直言うと、聞いてもぴんと来なかった。
なんでスポーツ選手を殺しちゃうの?と思ったくらい。
その時の私には、スポーツというのは、
汚れた大人の世界の中での数少ない聖域だったからだ。
すべてが裏切られたような気がして、「大人は汚い!」と言い出すのは、
それからほんの数年のことだったが。

実際は、テロリストを射殺することをドイツ政府が決意した時点で、
イスラエル選手は、すべて見殺しにされたのだ。
それが、今回の映画ではっきりとわかった。
国防と外国人11人の命を秤にかけたら、国防の方が重かった・・・・・・当然か。
いや、人のいのちの重さなんて、もともと、何かの文脈の中でしか
発生しないものなんじゃないだろうか。
それを決断するのがどれほど個人的に苦渋に満ちていたとしても、
国を司る人たちが、自分の情で動くことはない気がする。

でも、自分たちが見殺しにされたことを知った瞬間の選手たちの気持ちはどんなものだったろう。
結局、オリンピックだ何だといったって、
人間の重さというのは、
その属している集団・・・・・・国の力によって、どのようにでも変化するのだ。
イスラエルは小国だった。
世界がそのために、彼らに同情してくれなかった。
そして、強国であるドイツに文句が言えない以上、
当然、隠れた報復はあったはず。
あの、いつも曇り空だったような70年代。
まだソビエトがあったし、西と東があった。

主人公が暗殺者だった。
殺人をしていく時の画面が暗くて色が少ない。
それでも、最初、まだ暗殺をはじめる前、チームはみんなまだ明るい。
自分も同じ手口で暗殺される妄想に囚われて、ベッドではなくて、
クローゼットで寝るようになった暗殺者の話を笑い話でしたりもした。
やがて、自分がクローゼットでしか眠れなくなるとも知らずに。
自分が暗殺者であることによって、自分も標的になっていく、と知って、
仲間も三人失った時の主人公がとても哀れだった。

最初は殺人をためらっていた人が、どんどんそれに対して不感症になっていく。
暗殺の際に、子供を決して巻き添えにしないように暗殺者たちは気を配るのだが、
親を殺された子供たち、しかも目の前で惨殺された子供たちの人生が
その後、どうなっていくか・・・・・・そこまで考えてはいなかったろう。
大物の暗殺に屋敷に忍び込んだとき、守衛に見つかって、撃ち殺してしまうのだが、
どうも、それが、最初に暗殺した人の息子だったように見えたのだが、
この当たりは確信持てない。
だけど、もしそうだとしたら、その少年は半ば親の仇討ちのためにテロリストに身を投じたに間違いない。
「神の怒り」をいくら標榜したところで、
殺人を正当化することなんて、どこかで破綻するに決まっている、
という製作者の強いメッセージを感じる。

そんな世界に対して、暗殺者リーダーの、奥さんと生まれたばかり娘の作っている家庭は、
明るく色彩にあふれ、幸福と平和に満ちている。
この対比が、たまらなく切なかった。

シンドラーのリスト』を超える傑作だと言う人もいるとか。
暴力を、淡々とリアルに描くことで、暴力の醜さ、虚しさを訴える迫力は、
確かに『シンドラーのリスト』を超えていた気がする。