キャッツアイ以前、キャッツアイ以後

こんな言葉がある。『松本清張以前』『松本清張以後』。
これは何のことかというと、かつて日本には、推理小説と言えば謎解きを本筋にした、いわゆる『本格ミステリー』しか存在しなかった。そこに、作家 松本清張氏が、犯罪の『動機』に強い光を当てて小説を書いてから、『社会派ミステリー』の道が開けたのだということを指す。ミステリーの意味や空気が、ある時点からまるで違ってしまった。さながら『B.C. ビフォア・クリスト』のようだけど、人間が天地開闢から今のような存在としてあるわけではない以上、すべての物事には必ず『ことはじめ』がある。社会派ミステリーについては、それが誰によって創められたかはっきりとしている、ということだ。

誰かが言い出すか、あるいはどこかで言っているのを見つけるか、どきどきしながら待っていたけれど、待ちきれないので自分で言う。明らかに、『木更津キャッツアイ以後』と言える現象が存在する。それは、ドラマ・映画・文学・音楽の表現のジャンルにおいて、『死』が『一人称』の視点で描かれることだ。『木更津キャッツアイ』のドラマシリーズが放映終了した後、流行しはじめ、ドラマから4年たった今では、すっかり定着している。『二人称』の死は、『難病物』の一大ジャンルをはじめとして、古くから様々に描かれてきた。だけど、死の近い登場人物を、『自分の分身』として捉える、それに感情移入せずにはいられない、というドラマがかつてあったろうか。

キャッツたちは、毎日をビールと野球三昧で青春を謳歌している……ように見える。だけど、どこか、死のストレスから逃避しているように見えなくもない。

スタッフが、「ぶっさんにさよならを言える映画にしよう」という意気込みでいた、と言われる撮影現場。言葉通りに受け取れば、このドラマのファンすべてに、ぶっさんの死を受け入れさせよう、それがドラマの最初からの目的だったから、ということだろう。でも、私は、オカシイのだろうか、「芸能人 オカダジュンイチにさよなら、と言える映画」と瞬時に読み替えてしまった。わざとじゃなくて、降ってきたのだ。物事には終わりがあるなんてこと、普段はこころの外に締め出してあるのに、ふいに思い出すから困る。
それでこうも思った。単純に『死』を受け入れることだけでも、人間なかなかできることじゃない。だから、『キャッツ以後』は必要だったと思う。だけど、それだけではやっぱり行き止まりだ。人類がどうしてこうもしつこく宗教にしがみつくのかを見れば、その執着の強さもわかる。何かが必要なんだと思うけど、それが何なのかまだよくわからない。
映画を見たら、何か発見できるだろうか。映画にも、そして自分にも、期待してこうして待っているわけなのである。