ファンクラブの会報が届いた。~劇中の読書

藤原竜也さんのファンクラブからの会報が届いた。
あ、いえ、もちろん娘あてにね。
今回は、あちこちに出かけた先での写真がこまごまと多くて、楽しく拝見。
ロケやイベントが多かったせいだと思う。
そんな多忙な中、暇を見つけては、ずっと『宮本武蔵』を読みふけっている藤原さんの姿が何枚か写し出されていた。
私が今 はまっている、まさにそれを藤原さんが読んでいるのを見ると、何だか嬉しい。
藤原さんがそれを読んでいるのは仕事の一部、ではあるけれど。
これは、感受性の強い読み手に、たくさんの贈り物をくれる作品だと思う。
男性はもちろんのこと、女性にとっても。
そう言えば、去年の暮れから年頭の間に、藤原さんが何か少し違って見えたのは、ひょっとしてそのせいなのかも、なんて楽しく想像してみる。

ところで、劇中で読書している、その本のタイトルで、登場人物について多くが語られる、というシーンがある。
藤原さんについては、私が知る限り、ふたつ。
一つ目は、『ボーダー』。

藤原さん演じる美少年が、クラブの喧騒の中、ひとりで壁際のテーブルに座って、ランボーの詩集『地獄の季節』を読んでいる。
白いセーターが、幼いエロスを漂わせていて、形容し難い美しさ。

さて、天才詩人ランボーが詩を書いたのは、16歳~19歳の短い間だけだった。
それ以降は詩を放棄し、37歳でなくなった。
ランボーの詩は、青春の詩である。
だからこの詩集は、少年時代で時間を止めてしまおうとする、ドラマの少年の気持ちを、象徴的に表す小道具だった、と言える。
ドラマの少年を、歪んでいる、病的だ、と言う心の反対側で、それと同じ気持ちだった自分の青春時代をほろ苦く思い出してしまう。
このほろ苦さを知る人間があまりに多いからこそ、ランボーの詩は愛され続け、その寿命は、たぶん尽きることがないだろう。
つまりは、少年だった藤原さんに託されたものは、少年でなくなった大人たちの悲しみ。
重すぎるけど、それは人間存在が不可避に負う悲しみだから、表現されずにはいられない。
それを真っ只中にある少年に演じさせるのは、とても暴力的なことだって気がしてしまう。
良くぞ耐えた、なんて思いそうになるけれど、実際に藤原さんが何を考えたり感じたりして演じていたのかは、私にはわからないことだ。

二つ目は、『デスノート』。

ライトが、戸外で座って読んでいる本の表紙が大写しになると、何度も見たことがあるニーチェの横顔と、ドイツ語の文字が並んでいる。
映像をいったん止めてタイトルを読んでみる。
『Jenseits von Gut und B??se』と読めたので、ウィキペで確認したら、私が一番最初に読んだニーチェ善悪の彼岸」だった。
あ、そう。これを読んでいるのか。しかも原文で。
辞書さえあればあらゆる言語で書かれた本が普通に読める、なんていう宇宙人が、東大にはちらほらいるそうだが、ライトもそういう人なのか。
他者に対する共感能力が偏ったり乏しかったりする者がこれを読むと、歪んだ選民意識を正当化する誤読を起こす……と思う。
ライトは、最初、正義感に溢れていて、犯罪者が不当に野放しになっている現実に絶望して、デスノートを使い出した。
それが、自分のしている事の正義が破綻していくことに不感症なのはなぜ?と不審に思っていた。
映像的には、ライトがだんだんと思想的に変化していく様を、こういう小道具で表していたんだな、と思う。

どちらにしても、今時の若者があまり読まないタイプの本を読む、一風変わった少年・青年という設定だ。
その美しい若者の心の中で、今何が起こりつつあるか、劇中の読書は、それを雄弁に語る。
そして、それに続く登場人物たちの運命を、見る者に、はるかな空の雷雲のように予感させるのである。
「予感」、それは物語に向かう観客の心を期待と微かな不安で満たして、先へ先へと進める。
とても面白い。
小道具としての本、という視点で、いろいろアイデアを出してみようかな。

ps.
まったくの余談だが、私が好きになる俳優・女優にはある共通点がある。
このごろ気がついた。
どの人も、無彩色がことのほか似合う。
黒を着ても、色に負けない人ばかり。
その中で、藤原さんは黒も似合うけれど、それ以上に白の似合い方がすごい。
白を着ても、少しもぼやけない。白衣もいい。
そこが、わけもなく「いいなあ」と思う今日この頃である。
ほんとに余談だわ(汗)。