『ボクらの時代』後編 拝見

先週に引き続き、『ボクらの時代』の後編を拝見。
なんだ、藤原竜也さんが話しているのがたくさん聞けるかと思ったら、ほとんどしゃべらないのね。
というより、後の二人がぽんぽんしゃべるのね。
三人以上人がいると、すぐに聞き役に徹する人がいるけれど、もしかして藤原さんもそうなの?
ちょっと意外だ。
とは言え、話ははずんで、楽しんで聞けた。
市川さんと小栗さん、自我が強い二人だけだったら、ネット際のボレーの応酬みたいになるところを、藤原さんが緩衝材になっているような、そんな感じだった。

ところで、小栗さんが演出がしてみたいというのは、ずいぶん前にも蜷川さんとの話として何かで読んだ。
割りと本気なのね。
蜷川さんは、演出をすると、役者としては下手になる、とも言われていた。
小栗さんが、今回、演じているときに相手がこう出たらもっといいとか考えたりする、と言っていたけれど、そういう演出家視点が高じると下手になる、っていうことなのかな。
それにしても、いろいろと面白い話をする人だ、小栗さんは。
エキストラの話は、すごく興味をひかれた。
エキストラがそれほど重要なものだということは、言われないと素人にはぴんと来ない。
芸能学校の話だけど、国策として映画に力を注いでいる韓国などと違い、日本では、芸能高校だってあるかどうか。
ここの当たりの事情が、「人気が出てから、さあどうするか」という日本芸能界の体質になってしまっているのは、明白だ。
韓国みたいに、自分たちの国を世界にアピールするのに映画が有効な武器になる、という長期のビジョンを、日本の政治は未だに持てないでいる、というのは寂しい。
小栗さんの、学校を作ってちゃんと教育を受けた人たちをエキストラに使って、質の高い映画を、という夢は素晴らしいと思う。
40歳までに、というのはずいぶん具体的だけど、もう少し前倒しになると思う。

こんな風に、小栗さんの物の考え方の本質がやっと見えかけていたところに、市川さんに先に「俯瞰して見ている」とずばり一言で言われてしまった。
私が、『ムサシ』に向けていろいろインタビューを読んだり、ラジオも聞いたりして、時間をかけた上なのに、少し話すだけであっさり見抜いてしまうなんて。
市川さんの目は、すべてを見抜いているような目、と誰かが形容していたような気がするけれど、その通りだった。
しかも、嘘を言わないでストレートに話す人だという印象は、ますます強まった。
一流の人同士というのは、お互いを理解するのに時間がかからないもののようだ。

ところで、小栗さんが言う、自分たち(役者)というのは、必要なくなる仕事……表現が違うかも知れないけど……つまり小栗さんが言いたかったのは、社会での必要性が薄い方だ、という意味ではないかと。
ずいぶん前に、ジャニーズ事務所の東山さんが雑誌か何かのインタビューで同じことを言われているのを読んだことがある。
私は、それを読んだ時に、「馬鹿言わないで」と思って、我がアイドルも同じくそのように思い込んだら一大事だとばかり、戦略を練ったものだ。
人類が、2500年以上前に掴んだ芸能を放棄することなく、脈々とここまでやって来たのは、それを食べ物と同じく必要としたからに違いない。
これが現実なのに、いまさら必要性を云々する、その根拠となるものは何なのか。
ましてや、携わっている人たちがそれを言うなんて。

他の動物たちが必要としていない、芸能をはじめとする、人類の、一見、生命維持に結びつかない活動は、実は肥大した大脳を維持するための行為だとする説がある。
確かに、人類が他の生物に比べて最も際立った特質は、その大脳にあるし、それは人類の進化と共にどんどん発達していったのだから、この説には説得力がある。
この説が真かどうかは知らない。
だけど、この先の人生が、芸能が一切消えてなくなった世界だったら、と、SFのようなありえない想像をしてみたら、ひどく殺伐とした最低の気分になってしまった。
とてもまともな神経では生きていけそうもない。
もともと欝っぽい体質だし、発作的に死ぬかもね。

そんなことを感じていたら、市川さんが、ギリシャ悲劇からの歴史に触れてくださった。
「夢を売る仕事だ」と。
夢。夢と言うと、ただの現実逃避と思われそうだけど、ビジョンを与えてくれるピースのようなものだと、私は捉えている。
素敵な人だ。
確かに市川さんは女性にもてそうだ。
それと、小栗さんも、藤原さんもね。

PS.
藤原さんの髪がずいぶん長くなった。
長くても短くてもどちらも似合うし、どちらも素敵なので、どちらでもいいとは思うけど、
日本人男性で、長い髪がこんなに上品に似合う人はなかなかいないので、私はひそかに長い髪派である。
というわけで、ちょっと嬉しい。