DVD>『古畑任三郎ファイナル 今、甦る死』ネタばれあり。

このページには、『古畑任三郎ファイナル 今、甦る死』と、エラリー・クイーン『Yの悲劇』のネタばれがありますので、ご注意ください。


これもまたずいぶん鑑賞から時間が経ってしまった。
見たのは、やっぱり去年の、『新選組!』を見終わった頃だ。
その代わり、脚本家の三谷幸喜さんのエッセイを三冊ばかり、参考図書として読んだ。

三谷幸喜のありふれた生活3 大河な日日』
三谷幸喜のありふれた生活 4 冷や汗の向こう側』
三谷幸喜のありふれた生活〈5〉有頂天時代』

これら三冊の中で、『新選組!』と『古畑任三郎』に関連して藤原竜也さんの名前が出たのは、私が調べた限り三回で、それも、ちょっとした参考程度の扱いだった。
三谷さん自身が思い入れが強いという土方や、主人公の近藤勇に比べると、ずいぶん寂しい。
役者として、人として、藤原さんにはあまり興味がなかったのか、と疑ってしまいそうだ。
ところが、座談会『どんと来い! 新選組!』で三谷さんが語ってらした言葉によれば、藤原さんが書いた以上の沖田を演じてくれるので、「こんな台詞言えないよ」と言われないように、沖田の台詞には一番力が入った、とのことだった。
それを聞く藤原さんの顔が、また神妙だった。
まあ、確かに、『新選組!』の合間に、『ハムレット』を大成功させた藤原さんを前にしてだから、脚本家の心情としてはそういうことになるのかも。
うーん、喜ぶべきか、憂うべきか、それが問題だ。

そもそも、役者にはいろんなタイプがあるんだろうけど、藤原さんは、台詞について文句が多いタイプなんだろうか。
それとも、書かれている台詞の枠の中でベストを尽くすタイプなんだろうか。
情熱大陸』で、舞台『エレファントマン』の役作りで苦しんでいた様子から察するに、20歳の時点での藤原さんは、まっさらなところから自分でクリエイトしていくのは苦手、と見た。
ただ、与えられた台詞に対する読み込みの深さには定評がある、という巷での評判だ。
テキストには、どんなに隠そうとしても、書いた者の人間性が現れる。
脚本家にとって怖い役者ではある、と言えるだろう。

古畑任三郎ファイナル』についても、三谷さんはエッセイで少し触れておられた。
藤原さんが真犯人ではない、という巷の噂に対して、藤原さんが真犯人役であることは間違いない、と。
ふたを開けてみたら、実は、実行犯なんだけど、本人すら自覚がないままに教唆犯に操られていた、という役だった。
三谷さんはあてて書くことで有名なので、藤原さんの素のキャラクターも参考にして書いている、ということなんだろうか。
そう思ってみると、藤原さん演じる青年は、妙に子供っぽく、軽薄で、基本的な倫理観がなく、自分を客観的に見る能力が乏しい。
青年が心の拠り所にしている恩師の先生は、彼の「いいところ」を言ってくれるけれど、それは視聴者の目には、まったくの「まとはずれ」にしか見えない。
こ、これは。ファンにしてみたら、きつ過ぎる。
演技者としての藤原さんに対する信頼から、難しい「描いてみたかった殺人者」を登場させた、に一票。

さて、お話の骨格になっている既存の推理小説は、横溝作品をはじめ、いろいろあるようだけど、私はこの筋にエラリー・クイーンの「Yの悲劇」を思い出した。
犯人は、年端もいかない少年だ。
どうやら子供が犯人のようだ、というのは、割りと早くに気がつく。
しかし、高度な毒物の知識を必要とする殺人を、子供がどうやって?
それが、亡くなった館の主人ヨーク・ハッターが残した殺人指示書に沿って行われた、と最後にわかる。

知性ある大人によって書かれた殺人計画書に沿って、人格に問題のある少年が殺人を行っていくクイーンの筋立てから、子供の頃に自分が書いた殺人計画書を長じて実行する、という話に飛躍させたのだとしたら。
脚本家の頭の中が、一番ミステリアスだ。
殺人計画を立てるとき、多くは、殺したい相手(それは不特定多数の場合もあるだろう)を、イメージの中で殺害して、鬱憤をはらすのが目的だ。
それが実行されることはまずない。
ドラマの先生が言うとおり、普通の人間は、人を殺すのにまどろっこしい方法なんて面倒くさくてとらないからだ。
しかも、人間の殺人に対する抵抗感は、実際に思われているよりずっと強い。
この藤原さん演じる若者は、尊敬している恩師の思いを受ける形で、殺人に踏み切る。
だけど、それすらも恩師の計画通りだった。
彼がどういう時に何を考える人間か、すべてお見通しだったのだ。

そんな筋を見てて思った。
藤原竜也という役者は、蜷川さんという演出家の完全なる操り人形だと。
外に出かけていって、誰と組んでいたとしても、本人も自覚なしに見えない糸で操られているのだと。
そんなことを三谷さんは考えているのかなあ、と疑問に思った。
いや、実は私もそのように思ったことがあるから。
それを言ってしまえば、子供は親の操り人形だ。
子供は、親に褒められたくて、いろいろなことをして成長していく。
糸がなきゃ、大きな成長は望むべくもない。
その糸を子供の方からか、親の方からか、いつしか切る時が来る。
それを自立という。
この先、どうなるのかわからないけれど、明るい未来を祈っている。
長々と書いた末に、この締めの言葉はないだろう、と自分でも思うけど、言うべき言葉が見つからない。

というわけで、この当たりで。