『ボクらの時代』拝見

期待してたより面白かったわー。
ちゃんと芝居の話がたくさん出てきた。
そうそう、それが聞けなくては。

何となく、最初、市川海老蔵さんのお話を、若い二人が神妙に拝聴している、という形式で話が進んでいたような。
市川さんは、藤原さん小栗さんの顔を交互に見ながら話をしているけれど、二人は市川さんの顔をじっと見たままだった。
まるで学校みたい。
ちょっと硬くなっている二人を、市川さんがスカッとした語りでさりげなくほぐしにかかっていたような。
超一流の人って、やっぱり違う。
それで、だんだん話が弾みだしてからは、あとはもう話が楽しくテンポよく進んでいく。

一番、気になった話題。
日本の芸能が、人気が先行で実力が後から、という、世界とは逆の順序であること。
これは、いろいろなところで言われていることだ。

十分な実力がない人に対してお金を払ってしまう人が、この国にはたくさんいるから……。
よく言えば、芸能に関して言えば、若くして実力もなく出てきた人たちをOJTの形で育て上げる体勢が、全国規模でできあがっている国、という……。
実力がある人に対してお金を払う分で、安く使える人を使ってしまう流れになっている、という方が正解かも知れない。
若いことと可愛いことに、過剰に価値がある国だから、というのが実情、かも。
今、経済について勉強しているところで、芸能もその視点で読み解ける。

ただ、市川さんの目から見て、藤原さんと小栗さんは、どうなんだろう。
どの年齢の頃のラインが「実力あり」というラインだったんだろうか。
私の解釈の力が弱いせいだろうか、いまひとつそこのところはわからない。
そもそも、その話題が出たきっかけを忘れてしまった。
ただ、その話題を出している、ということは、既に二人を実力・人気の両方ある役者だと認めている、ということなので、ひそかに嬉しい。

二番目に気になった話題。
歌舞伎は型があるけれど、映画はゼロから作っていくもの、という違い。
ただ、歌舞伎は型があるからこそ、様式美というか、個々のスキルの洗練がすごいということもある。
母親の胎内にいる時から歌舞伎に接しているので、潜在意識レベルで歌舞伎に……なんていう表現だったろう……そんなことも言われていた。
これは私が気がついたことだけど、歌舞伎の人たちは普通の舞台や映画も演じられるけれど、舞台や映画の人たちには歌舞伎は演じられない。
どちらも、もう一方はできない、というのなら、別々の分野なんですね、と納得するけれど、この一方通行はどういうわけなんだろう。
で、藤原さんや小栗さんが、歌舞伎という芸能に対して、どんな感じを抱くか、そのあたりが詳しく聞いてみたいポイントだった。
それが来週聞けるといいのだけど。

それと、言いにくいんだけど、個人的には具体的な恋愛話はあまり聞きたくない。
聞いても困るだけだし。
恋愛「観」の話には、ひとつの意見として聞くべきところはあると思うけれど。
西麻布は余計だって(苦笑)。
無神経すれすれ、という悪い予感は的中したな。
そこで話題が反れて、小栗さんの「一億総パパラッチ」という話になっていったのだっけ?
日本国内における、藤原さん、小栗さんの認知度は80パーセントくらいだから、確かに一億弱の人間が、この顔をした人物が「藤原竜也」「小栗旬」という名の俳優だと知っている勘定になる。
全員パパラッチにはならないまでも、どこへ行っても撮られるというのは、確かにそうだろう、と思う。
何だか、想像するだけで胃に穴が開きそうなんですけど!
これまでの芸能人は、自らそれを「有名税」と言って、許容する方向でやってきてしまったけれど、おかげで日本にその悪習が定着してしまった。
これからの若い表現者のため、ひいてはこれからの日本の表現のため、改善すべきことだと思う。
「断る力」じゃないけど、それを改善していける立場の人というのがいるはずだ。
それにしても、自分のそういう嫌な体験を、自然に視点を広げて未来のビジョンに結び付けていく小栗さんて、只者ではないな。
英語とコミュニケーションの話のときも、つまりは、今あることと未来との関係が瞬時に見える、そういう堅固な回路を体内に持っているのね。

来週もこの三人のトークが続くとか。
楽しみなことである。
前回の、『ボクらの時代 自分を「美しく」見せる技術 藤原竜也×中村勘太郎×高橋大輔』は、割りと早くに出版されたので、今回もきっと同じように早めに出版されるだろう、と期待している。