天才論~藤原竜也

『カメレオン』を見た7月5日から約4ヵ月。藤原竜也さんの出演したドラマ・映画・舞台のうち、映像が手に入るものは、初期の一部を除いてすべてを見終えた。あと、文章も、フォトリーディングのおかげで短時間にかなり目を通すことができた。今年の7月から10月は、私にとって『藤原竜也研究』の期間であったと言えよう。計画的に進めていたので、とても充実した時間を過ごせたと思う。

藤原さんを最初に『天才』と評したのは、ロンドンのバービカン劇場で、一番最初の『身毒丸』を上演した時に、当地の新聞で劇評した評論家だろうか。オーディションで藤原さんを抜擢した人たちだろうか。どちらが先かわからないけれど、それだけ『身毒丸』が伝説の名舞台だったということだろう。

天才と言うと、普通の人が散々努力してやっと到達できるレベルに、何の努力もしないで行けてしまう人という誤解が根強くあるように思う。実際、藤原さんが天才と呼ばれ、それに反論をさせないでいる理由は、ダメ出しに対する反応がかつて見たことがないほど速いという証言の数々による。それが天賦の才能であることは疑いようもない。それに加えて、人を惹きつけて放さない個性的に美しい容姿、と声。ずば抜けた身体能力。これも持って生まれたものだ。で、そんな人でも『天才役者』と呼ばれるまでには更に血のにじむような努力が必要だ、ということは、なかなか周知のものにならないようだ。このストイックな性格も、実は天性のものだという気が、私にはするけれど。

世に天才として名が残っている人たちを調べると、努力しなかった天才というのは存在しないのではないかと思えてくる。『天才』からすぐに連想される人と言えば、絵ではピカソ、音楽ではモーツァルト、美術総合ではダ・ヴィンチミケランジェロ、戯曲ではシェークスピア、科学ではニュートンアインシュタイン、この辺りがすんなりと名前があがるところだろうと思う。その逸話の数々が物語っているのは、彼らの驚くばかりの早熟さ、つまり天賦の才能の存在だ。だけど、そちらの方ばかりに気をとられて、彼らの努力がどれだけ偉大なものであったかを見逃してしまいがちになる。

私が一番調べた天才はピカソだが、残された習作の数のおびただしさが、ピカソの努力の凄まじかったことを雄弁に物語っている。伝記の多い人なので、読んで見るといずれにもその努力について書いてある。ピカソは、いわゆる子供の絵というものを書いたことがなかった人で、物心ついた時に描いた絵が、既に立派なデッサンだった。これは、持って生まれたものだ。そんな人が自分の殻を破るための二十代前半まで、ずっともがき苦しんで、がむしゃらに努力し続けていたのも、凡人の目から不思議なものに映る。そして、絵画史上、革命の一枚『アビニョンの娘たち』を完成させたのはピカソが26歳の時だった。こんなところが藤原さんとダブる。藤原さんが苦しんで役者という仕事に取り組んでいることだって、こうやって調べつくしでもしない限り、誰も想像もできないと思う。ましてや、自分の「停滞」を恐れていることなんて。
もし、ピカソが「絵の上手なパブロ君」の位置で妥協し、苦しまなかったら、多くの人が知る巨匠ピカソは存在しなかった。同様に、『身毒丸』以降、藤原さんが努力するのをやめたら、今の藤原さんはなかったのだと思うと、ちょっと怖くなる。

それで思い出した。私の知人で、ピカソのように子供の頃から抜きん出た画力を持った女の子がいたのだが、その子は高校生の時に首を吊って死んでしまった。理由は公表されなかったが、やっぱり世間は彼女の絵の才能と結びつけて憶測した。私は、自分にそんな才能があったら、絶対に死なない、どんなに辛くても絵でひとかどの人間になってやるとかたく心に誓うだろう、と悲しかった。けれど多くの人と同様、実際にそんな才能を持ってしまった者が何を感じるか、終生理解できないから、「自分だったら」という仮定に意味はない、と今は思っている。

もしかして、あの「訓練もしないうちに、最初から正確なデッサンを描く」という才能は、10万人とかにひとりくらいのレベルで現れる、珍しい奇形のようなものではなかろうか。それが事実だとして、いかに珍しくとも、人類は60億人いる。もっとたくさんピカソ型の天才画家がいてもいいはずだが。実際はそうではない。そこに、もうひとつ以上の条件が必要だと考えるのが自然だと思う。
同様に、藤原さんのような才能は、どれくらいのシェアで存在するのだろう。身毒丸で共演された白石さんが、「はじめて見た」と言ってらしたから、やっぱり何万人にひとりのレベルだとして、それでもその他のすべての条件が整うことは稀だから、蜷川さんの言う「三十年に一人の天才」ということになるのだろう。その条件のひとつが、努力。

何となく思うことだけど、平均的な能力を、高いレベルに持っていくことよりも、持って生まれた高い能力を最高のレベルにまで磨き上げることの方が、もっともっと困難で苦しいのではなかろうか。まるで、磁石の斥力と距離の関係のように。だから、それを成し遂げることが、天才の必須条件になっていく……最近、そう思えてならない。そして、そんな人たちが殻を破るのが、だいたい26歳頃。今の藤原さんの年齢だ。前にも言ったけれど、天才というほどの力は、人類をどん詰まり状態から、吹き抜けたところまで持っていく、そんな力だと信じている。藤原さんに「すごい役者になって欲しい」という演劇界の人たちの祈りは、きっとかなう。そう私も信じ始めている。それがかなった時、変わるのはただ藤原さんひとりだけではないはずだ。「日本を世界に持っていく」ことをまず成就した先には、「日本を世界にする」が待っている。藤原さんがそれをするまで、生きていたいと最近、強く思っている。