映画>『蛇にピアス』  ~『嗤う伊右衛門』の回想

金曜日、仕事から一直線に川崎のチネチッタまで『蛇にピアス』を見に行った。藤原さんが友情出演しているけれど、今回はそれが目当てではなかった。蜷川さんが何をしたいか、言いたいのか、それが知りたい。それが目的のすべてだ。
蜷川さんのこれまでの監督作品は、すべて見ている。その内ふたつは映画館で。特に、『嗤う伊右衛門』はポスターに一目ぼれして、飛んで見に行った。あの時は、映画を見ることで自分の中で何かが大きく変わりそうな直観があって、それは例によって見事に当たったのだった。ここで注釈だが、私の顔には生まれつきの黒あざがあった。ちょうど映画のお岩の傷と同じ位置だ。二十歳の時に手術で取ったけれど、その時に精神科医が約束してくれた心の治癒には、いくら経っても完全には至らなかった。ちなみにその診断は「対人恐怖症」だ。なぜ、原因を取り除いて努力しても治らないのか、その謎を解き明かす鍵を、ずっと無意識に探していたようだ。
映画の中、顔に疱瘡の傷を負ったお岩に、小股潜りの又市が言う。世間がお岩を嗤うのは、醜いからではない、それを隠そうとも飾ろうとも恥じようともしない、そんな強いお岩が怖いからだ、と。私は当人だから、それが同じように当てはまると確信持てないけれど、それでも何だかやっと憑き物が落ちたような気がした。私も周囲の人たちの気持ちをずいぶん見誤っていたかも知れない。もし、人間関係がうまくいかない理由が、思っていたものと違うとしたら、対処法だって変える必要がある。それがわかれば話は早い。戦略変更だ。他人の気持ちがよくわからないのは、やっぱり自分を一般化して考えてしまいがちだからだと思う。それを教えてくださった蜷川さんに、深い感謝の気持ちが起こった。

というわけで、蜷川さんの映画はすべて見ることに決めていたのだけど、今回はかなり迷った。原作は、図書館で読んで……三分の一で挫折した。SMの描写の部分で拒絶反応が出てしまった。
もともとセックスは苦手な方だと思う。見るのもだけど、実戦の方も。過去、恋はそこそこしてきたけれど、その時もあまり好きな方じゃなかった。そのくせ、しないと相手の気持ちが自分から離れているのではないかと不安になった。蜷川さんに「不感症!」なんて言われたら、「どうして知ってるんですか? 誰に聞いたんですか?」とうろたえそうだ。さすがにこの年齢になると、それをどうにかしようという気持ちはないので、今回の映画鑑賞は、私の根深い生理的嫌悪のひとつを何とか和らげる荒行のひとつ、という位置づけで見てきた。

覚悟していたほど、汚くなかった。女の子がとても可愛くて透明な感じだ。表情があまり豊かでなくて、声が幼いのが、逆に性描写の不潔感をなくしているように思う。この女優さん、この体当たり演技はすごい。願わくば、ビッグになって欲しい。
それにしても、慣れというものは怖いもので、ずっと見続けていくと、苦手なはずのSMシーンもあまり醜く見えなくなってくる。いつもなら、女の子がひどい目にあうシーンを見ると怒りを覚えるけれど、「これがふたりの流儀なのか」と途中で納得して、肩から力が抜けてしまった。ただ、自分の家族とか大事な人がこういうことをしている、ということがわかったら、一歩間違えたら大変なことになる、と嫌われるのもかまわず必死で止めるだろう。他人だと思うから「それぞれの自由ですね」で終わる。私って、心の冷たい人間なんだな、と再確認する。

痛みだけが生きている実感、なんて言われて、ひょっとしてその部分は共感できるのかな、と最初は思った。ハイティーンから20代の前半に、生きている実感が欲しくて私がしたことは、何日も寝ないでいろいろしたり……ちなみに頭脳労働しながらだと四夜貫徹が私の限界……何日も食べないでいたり。あと、走ったり、いろいろ。自分の肉体が、生きようとしてどれだけあがくか、それを意志の力がどれだけ押さえつけられるか。意志の力で食らったダメージを、自然治癒力はどれくらいのスピードで回復するのか。それを実験するのが面白かったことがある。そうやって、自分の肉体で世界をひとつひとつ確かめていかなくてはいけない季節が、誰にもあるんだと思って、一見無謀に見える若い人のことは、できるだけ許容する気持ちはある。他人に迷惑をかけず、取り返しのつかないことでなければ、の条件づきで。ルイのひとつひとつの行動も、そういうことなんだと思っていた。最初は。だけど、タトゥーやスプリットタンに走るのは、世界に切り込むことではなくて、自分の中に逃げ込むことだと途中ではっきりした。身近にいる人間がどういう人なのか興味がないというのも、そういうことなんだろう。そのままだと、どこかで行き止まりが来るような気がする。

映画を見ていて思った。この子達は、怖くて不安じゃないんだろうか。もっと言えば、生きたい、生き続けたいというパッションを感じないんだろうか。もし感じないんだとしたら、それは私には理解不能なほどの絶望だ。途中、変な気持ちがしたんだけど、「お前を殺したくなったらどうしよう」なんて言われて、相手に嫌悪感を抱かないというのは、一体どういうわけだろうと思った。まあ、単に、私は嫌悪感を抱く人間で、ルイは抱かない人間、ということだろうけど。人間が生きることに執着するのは、生き物としての基本デザインじゃなかったんだろうか。主人公のルイが、街中で親子連れを見て嫌悪感を抱くシーンで、決定的な断絶を感じた。私はこの人たちの味方はできない。未来に向いているものが何もない。

ルイと同世代の娘が、「こういうのは理解できない」と言うので、ほっとしてしまった。私は古いと言われるのかも知れない。なんだか書いていて不安になってきた。この年齢にしては、性について浅すぎる感覚しか持っていないことについて。人間、それぞれ得手不得手はあるから、単純にこれが苦手分野だと言って済ませてしまえばいいのだけど、苦手と言いつつどこかこだわっているところもある。だから、これは今後の宿題ということで。