前回の続き~三島作品について

はじめに。
好きな人と自分との共通したものを見出すのは楽しいものだが、藤原さんは、私とは正反対の部分ばかりで、それはかなわぬものかな、という気がしていた。
やんちゃだった、とか。
小さいときから誰からも好かれて、リーダーだった、とか。
学校では、イベントでみんなを引っ張っていく役割りだった、とか。
勉強はしなかったし、授業もサボり放題だったけど、先生とは仲良しだった、とか。
これと正反対が私の子供の頃の姿だ。
切ない(笑)。
そう思っていたんだけど、バラエティ番組などの動画を見ていて藤原さんの、話が時々ワープする癖に気がついた。
私も若い頃によく言われたことだ。
これは、連想が変則的で、かつスピードが早いタイプのワープ話法だ。
藤原さんが実際に、バラエティで浮いていた場面を知らないけれど、この当たりが浮いてしまう原因ではないかと推測している。
私の場合は、高校の時の友達で、勘が良くて頭のいい人がいて、誤解されている私を「感受性が群を抜いて強いからそうなる」と弁護してくれた。
それから気をつけて話すようになったものの、少しでも気を抜くと、ワープしていることに自分で気がつかない。
年をとるにしたがって、人とだんだん気を抜いて話すことがしにくくなる。
ワープした空白をナチュラルに埋めて話ができる人に出会うと、砂漠でオアシスにあった気分になる。
だけど、そんな人は滅多にいない。
最近の藤原さんの、ちょっと寂しげな顔も、それが原因なのかな、と憶測してしまう。

藤原さんが、役作りについて語るインタビューは、その感受性が「そこにある」という確固たる存在感を放っていて、嬉しくなる。
エレファントマンの心理についての考察は、悔しいけれど「負けた」と思った。
それと、三島作品についての言葉の数々。これは「惨敗」という感じだ。
あ、別に勝負しようと思ってるわけじゃないんだけどね(汗)。
若いのに、すごいなあ、と羨ましいのである。
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さてさて、話はまったく別。
先日、三島由紀夫論みたいなことを少し書こうとして、なんだか変なものを書いてしまった。
ずっと考えてきたことを短い文で表そうなんていうのが、土台無茶だった。

『近代能楽集』を演じるに当たって、藤原さんが三島さんの亡くなった場所に行ってお願いしてきた、という話を聞いた。
蜷川さんの、この巨匠に対する想いにも、並々ならぬものを感じた。
その上で、私もその気持ちを少しでも追体験しようと思い立ったわけだが、自分の性のトラウマに阻まれて、こんな風に門の前でうろうろしている。
こういう時は、搦め手でいくべし。

「自己愛」ということを考えた時に立ち上ってくる男女の複雑な関係について、三島作品ほど鮮やかに描いたものはいない。
そう主張する研究者がいたので、それについて考えたことを書こうと思っていた。

さて、『仮面の告白』で一番最初にかちんときた部分として、ジャンヌ・ダルクの話があった。
ジャンヌ・ダルクは、おそらくは、男性の中に普遍的にある女性嫌悪の感情によって、魔女として焼き殺された。
そういう認識でいたから、三島文学と魔女狩りとのイメージが重なっていった。
魔女狩り……それが読み解くのに必要なキーワードではないだろうか、と。
以前、魔女狩りについて調べていたときに、はじめて悪魔学というものを知った。
それによれば、中世の人たちは、敬虔な男性が色欲に囚われたとしたら、その原因はそれを引き出すきっかけになった女性の魔力だと考えていたようだ。
つまり、女の子と目が合った、むらむらした、こいつは魔女だ、殺さねば、というわけだ。
現代の知識・認識に照らして考えれば、とんだ言いがかりと言えるけれど、裏を返せば、それほど男性たちにとって色欲は、説明のつかない衝動だと言うことだ。
説明がつかないばかりではない。それについて、いらだちをおぼえる人もいる、ということ。
自分の中のものを否定したいとき、多くはそれを外に求める。
それが制度化され、理不尽な殺人が公然と整然と進められたのが魔女裁判
その男性たちの気持ちがどういうものなのか、女性は皆、主観的に理解することなく一生を終える。
どれほど、それが男性たちにとって、生々しい実感だったとしても、だ。
もっと言ってしまえば、自分たちの何がそうさせるのかだって、理解できない。
そもそも、性的欲望を感じた相手を、どうして惨殺してしまうのだろう。
美しくて魅力的だったってことだろうに。
生物としての筋も通っていないではないか。
理解不能、リカイフノウ……。
現代の社会問題になっているドメスティック・バイオレンスとも通じるものを感じる。
結局、「それは理解できないもの」ということしか言えない。
何も結論めいたものはない。
……そうだよね、何世紀にもわたって、多くの学者や芸術家が、一生かけて考え抜いて、はっきりと結論づけられなかったものを、私がちょっと考えて答えが出せると思う方がおかしい。

その謎が、他の三島作品を読めばわかるようになる、というのであれば、ぜひ読んでみたい、とは思う。
でも、毒が強そうだなあ。気が重い。
『近代能楽集』は、そうしたことのとっかかりとなろうか。
豊饒の海』の主人公は、自分に恋愛感情を抱かせた女性に苛立ち、荒く扱うとか。
その心情が、ねちねちと書かれているとか。
うーむ、気が重い。
誰か、簡単に論理式にしてくれないだろうか。
もしくは、直観的にわかる舞台・映画に、とか。

落ちがないけど、このあたりで。