DVD>舞台『エレファント・マン』主演 藤原竜也

エレファント・マン』、DVDにて拝見。それまでは蜷川さん演出の舞台だったけれど、これは別の人
のものだ。これが上演される少し前、ACTシアターに別舞台の観劇に出かけた折に広告を見たのが、とても印象的だった。象のような奇形を持った主人公を、こんなに美しい子がどう演じるのだろう、と興味を引かれつつ、根性ないので、例によってパスしてしまった。あーあ、あの直観に従っとけば、今頃はリアルタイムでいろいろ見られた後だったのに……いや、言うまい言うまい。これも縁のひとつの形というものだろう。

さて、この物語は、いろいろな要素が絡んだ複雑なもののようだ。科学と宗教の話、哲学論、物語論など、さまざまの小さなテーマが見え隠れする。ひとつひとつ掘り下げていくと、それだけでいくつもの物語になりそうなほど。交わされる会話のひとつひとつが、そんな深さを持っているような気がして、何度も反芻してみる。でも、それらはすべて、異形の主人公、ジョン・メリックが現れたことによって、周囲の人々の中に引き起こされたテーマなんだと思う。彼が現れなければ、みんな予定された調和の中に埋没して、退屈で平安な日々を送っていたはずなのだ。さて、異形と言いつつ、観客である私の目に見えているのは、たとえようもなく美しい姿をした若者だ。やがて、それは、彼の心が形をとって現れたものだと、納得する。「僕も、これが僕です」と言う台詞で、「ああそうだったのか」と。きっと私も、実際はメリックの異形の姿に惑わされて、何も見えないのだろうな、と思う。

ジョン・メリック以外の登場人物はすべて衣服をがっちり着ている。首や手首まで隠すような、ヨーロッパ的な服を着込み、その上身分の高い人ほど装飾過多である。ジョン・メリック一人だけが、上半身裸のままでずっとお話は続いていく。とても清潔感のある上品で美しい身体なんだけど、見ているうちに、だんだんといたたまれなくなってくる。以前、似た気分になったことがある気がしていて、記憶の中をまさぐっている内に、やっとそれがマネの『草上の昼食』だと気がついた。立派な身なりの紳士二人と、全裸の女性一人がピクニックの食卓を草上に広げてくつろいでいる絵だ。後ろに水の中に入っている女性一人。裸婦だけの絵はすこしも卑猥ではないのに、この構図はなんと卑猥で醜悪な感じがすることだろう。名画と言われているけれど、どうも私は好きになれない。誤解を恐れずに言えば、これは緩やかなレイプだ、と。……そうだ。登場人物たちによって、ジョン・メリックが緩やかにレイプされている、と感じてしまったのだ。いや、それを見ている私も同じように、無防備に傷つくしかない青年をひどい目にあわせているに違いない。だって、私は防御完璧なのだから……。しまいには、ジョンに駆け寄って、毛布で身体を包んであげたい衝動にかられる。「あなたが一人だけで傷つかなきゃいけない理由なんて、何もない」と言ってあげたくなる。ケンドール夫人がしたことも、結局こういうことだったのか、と思う。夫人は私の言うこととは逆のことをしたのだけど。自分を見せる、ということに関しては、対等でなければその関係はどこか卑猥なものなんだと……今風に言えば、温度差ということだろうか。それがとてもよくわかった。言葉で言われているわけでもないのに、わかりすぎるくらいわかった。

ところで、ジョンが、教会の模型が「(神の)真似の真似」と言う言葉を、医師は、プラトンイデア論と同じだと感じて解説する。それでふと思うのだが、プラトンの言う「イデア」とは、今日の脳科学に照らして考えると、人類の高度の抽象化能力のことを指すのではなかろうか。それでいくと、つまりは神の国とは、脳の中の最上位のどこかのことだ。しかし、そこにあるからと言って、人間だったらすべてそこにたどり着けるとは限らないのが難しいところだ。登場人物たちのほとんど、信仰を持っている人ですら、そこにはたどり着けないんじゃないかと思う。だけど、ジョンはきっと、最後にそこにたどりついた。彼の死のシーンが、あまりに美しいので、そう思った。そのシーンは、とても悲しい。純粋すぎると、この世に長くとどまれないみたいだ。そういうことになっているみたいだ。なぜなら、純粋だったものが汚れてしまうのは、たぶん汚れる方が生きるのが楽だからだ。「汚れ」というのは、「神の国」から遠ざかっていく後ろめたさをごまかす方便のことだと思う。私には、宗教や道徳ですら、その方便の一種だと思えてならない。でも、障害を負っていると、汚れることすらできない。私が過去、出会った障害を持った方をひとりひとり思い出して、本当にそうだったな、と思う。

これは、個人的にはかなり好きなDVDだ。美しいものが好きな人にお勧めしたい。