miniBIG三等当たった

昨年最後のminiBIGを面白半分にネットで三枚買って忘れていたら、三等が当たって振込みがあった。4080円。何となく今年はいい年のような予感がしていて、プログにもそう書いたけど、本当に幸先がいい。ビギナーズラックっていうやつ? 最初がいいとギャンブル依存症になりやすいそうだから、もうやらないでおこう。ちなみに、競馬、競輪はやったことがない。パチンコは誘われて何度かやったことはあるけれど、あまり面白くなかったので、それ以来やったことがない。

というわけで、ギャンブルの話。ヨーロッパなどでは、貴族が競馬やカジノなどでギャンブルを楽しんだりする。映画「マイフェアレディ」にもそんなシーンがあった。そこへいくと、日本の場合は、あんまり紳士という感じではない。このギャップには前からとても興味があった。最初に勤めた会社が競艇場のそばで、レースのある日は社屋の前に止めておいた自転車が壊されたり、花が引きちぎられたりするような被害が山ほどあったものだから、ギャンブル=人心の荒廃、という図式が染み付いてしまっていたせいもある。ずいぶん前に、ラジオの「GROWING REED」で競馬がテーマだったことがあるけれと、ゲストの言うとおり、馬が走っているところを生で見たら、さぞかし美しかろうとは思う。競艇だって、競輪だって、オートレースだって、みんなきっと美しかろう。ただし、美しくないものが観客席に山ほど(笑)。本当は、レースというものを成り立たせるためのちょっとした工夫のようなものだった賭けの部分が、日本だと主たる目的になっているところがいけないのかな、と思う。

ところで、近々映画が公開となる「陰日向に咲く」の中に、ギャンブル狂でオレオレ詐欺に手を染める鉄道員の話が出てくる。一人称で書かれているせいだろうか、アリ地獄のような救いようのなさだと思った。それを読んで連想したのが、ドストエフスキーのこと。この大作家は病的なギャンブル依存症で、お金を片っ端からカードですってしまったのだとか。その模様を克明に記録した文を読んだことがあるが、あれはすごかった。胸苦しくなった。私には、単純にやめればいいとしか思えないけど、依存症だから本人の意志だけではどうにもならないのだろう。もしかしたら、ドストエフスキーがギャンブル狂でなかったら、あんな名作をいくつも書けなったかも知れない。いや、根拠はないけれど、作家というのはみんなどこか変わったところがあるように思うので。

ギャンブル熱というのは、「神様に愛されたい」という願望だと言った人がいる。たとえば、何万人に一人の確率の幸運というものがこの世に存在する。なぜそれが自分じゃないんだろう、と思う。その幸運が欲しい……そういう渇望なんだと。そう言われると、私にも理解できる。確かに、ラッキー、欲しい。生得的なものなんか、幸運の最たるものだと思う。絶世の美女とか、天才とか、そんな風に生まれたらどんな気持ちがするだろう、なんて想像する。どんな人格形成がなされるだろう。

幸運の逆の不運だって、確率的なものもある。、若くして不治の病に侵される人がいる。何千人にひとりの不運だ。「どうして自分が?」と思う。すべては偶然だけど、その偶然がなぜよりによって自分に来たのか、理由が知りたい……。理由はなくて、それは確率なんだと言われても、納得しようがない。ここで無理やり「理由」もどきを作ろうと思うと、神様や因果律の登場になるのだろう。で、私はずっと前から神様に消えて欲しい派で、年末年始の読書は、すべてその理論武装のためのものだ。

何が言いたいかとというと、努力したら努力した分だけ報われるような、そんなしくみを日本ではもっと強化していった方がいい、というお約束の一言なのだった。

勉強しよ。