「エヴェレスト 神々の山嶺」見てきました。

原作のある映画については、前々から「読んでから見る」派なのだが、我がアイドルの映画に関してだけは、まず、原作を見ないまっさらな状態で、1回もしくは2回観て、その後で原作を読んで、その上でさらに数回観る、というのが習慣づいている。

これが一番、楽しめる。

「エヴェレスト」に関しては、原作がすばらしい、という話があちこちから聞こえてくるので、二重の期待でわくわくしながら封切りを待っていた。

そして、観てきた。

エヴェレストという山の名は世界最高峰としてよく知っているし、仕事を極めたエースの代名詞によく用いてもいる。

「登るのはよっぽど困難なんだろうなあ」ぐらいに漠然と思っていたけど、こんな恐ろしいことだとは映画を見るまで知らなかった。

まず、空気。標高5000メートルで酸素が半分しかなくなって、それはどんな状態かというと、低酸素室で訓練する初心者は唇が見る見る紫色になるレベルだと聞く。

てっぺん近くでは、さらにさらに酸素が薄くなる。それってどんなの?

加えて厳寒、強風、雪崩、落石、断崖、エトセトラ。

これを、どうやったら人間が山頂まで登れるっていうのだろう。

おかげで、山中には遭難した死体が300体もいて、それらを下ろすことは不可能なので、放置するしかないとか。

ここまで聞いたら、命が惜しい上、体力が平均的な女性より下回っている私などは、エヴェレストに上りたがる人たちのことを、「理解不能!」とカテゴライズして済ませたくなる。

それでも、映し出される山の姿は、登りたいという人々の気持ちに一瞬で寄り添えるほどの説得力があった。

これは、理屈ではないのだな。

ところで、ずいぶん前に、ドキュメンタリーで、ジブリ作品に描かれるもの、特に遠景が、デッサンをわざと崩している、という話を聞いた。

カメラで写したり、正しい遠近法で描いたりすると、山などを見たときの壮大な感じが、不思議にも感じられなくなる。

つまり、その「壮大さ」は人間の脳に生まれるものなのだ。

人間が脳の中でやっていることを、アニメという形で表現するために、ジブリ作品は、あえて遠景を大きく描いている、と。

私も、ニューヨークの大聖堂に入った時、写真で知っていたはずのものの圧倒的な荘厳さに驚愕した。それまで何も見てこなかったのと同じだ、と痛感したくらい。

ヒマラヤ山脈の神々しさは、世界に並ぶ物がない。

映し出された山々は、確かにここには神がいるのだろう、もしくは山そのものが神なんだろう、という畏敬の念を起こさせた。

それでも、きっと直に見た人たちの脳内に立ち上った感動には及ばないだろう、と悔しくなる。

私ももっと若かったら、これで刺激されて、見上げられるところまでは登ってみたい、と思い立ったことだろう。・・・あ、これか。

「なぜ山に登るのか」と問われて、マロリーは「そこに山があるから」と答えたそゔだが、羽生は「ここに俺がいるから」と答えた。

とても深い言葉だと思う。そして、とても希有な知性・感性・能力の持ち主だと思う。

一人の人間が、情熱に捕われた時、それか傍目にどんなに奇異に、あるいは滑稽に見えたとしても、本人にとっては、「それが私だ」としか言いようのない、そんなものなんだと思う。

でなければ、人類は今日のようになっていないはずだ。


情熱と言えば、今回の映画化に関わった方達の情熱も、言葉を失うほど。

もしかしたら、わざわざエベレストの標高5000メートルで写さなくても映画として成立したのかも知れない。

そこにこだわってやっただけのリアリティは、すご過ぎた。

役者の顔色と息づかいが本物なので、観ているこっちも思わず息が苦しくて、凍えそうになる。

で、それもあって、最後近くの場面、ネタバレを避けるためにあえて書かないけれど、たぶん、私も深町と同じ絶望を共有したんだと思う。

一人称の死は存在しないから絶望もない。
三人称の死は絶望するほどでもない。
二人称の死だけが。

深町の行動が何となくオカルトっぽいけれど、できることがすべてなくなった人間ができることは、唯一それだけだから仕方がない。

その上でさらに歩いていく意思。

私みたいに、人生ラストスパートっていう人間には、なんか妙に心に響く場面がいくつもあって、原作も読み始めて途中だけど、来週、もう一度行ってくる。