映画・本>『羊たちの沈黙』『ハンニバル』その2

本>「羊たちの沈黙」「ハンニバル」

(2001.8.7)
遅くなったが、映画化された「ハンニバル」を見た。ストーリーの大筋では原作に極めて忠実だったと思う。もちろん、すべて映像にしていたら、映画の時間枠をはるかに飛び出してしまうだろうから、かなり落とした要素がある。まず、レクター博士の幼児期のトラウマが形成された事件はすべて割愛されていた。また、メイスンから性的虐待を受けて、レクターに心理治療を施された妹・・・彼女はボディビルダーで、レズビアンである・・・は、いない。この妹が物語りの最後で果たした役割は、メイスンの付き添い人が代わりに果たした。あと、負傷したクラリスを連れて隠れた場所で、レクター博士は治療と同時に心理分析をするくだりがあるが、そこもない。そこがなくなっていたのは、とても残念な気がした。その隠れ家で、レクター博士が着々と色々なことをしていくのが丁寧に描写されるのだが、最後、すべてクラリスに、この一連の心理治療を施すためであったことがわかる。この当たりも全部なくなっているので、メイスンとレクターの対決という表の流れと、レクター博士クラリスの癒しの裏の流れが物語にはあるのが、映画では表のみが見える仕組みになっている。確かに、心の中の出来事は、個々人にとっては現実であっても、それを他者にダイレクトに見せることは難しい。映画と原作は、別々のものだと考えるのか正しい鑑賞者の姿勢というものかも知れない。

ところで、「百聞は一見如かず」と言うが、物語を読んで思い描いた世界は、現実の持つ迫力の前でかすんでしまうことがよくある。イタリア・フィレンツェの由緒ある町並みもそうだし、営利誘拐をなりわいとしているマフィアの「汚らわしさ」というものが、もっと腐敗感やそれに対する感受性の不在に裏打ちされたものであることを「映像で」示した部分など。これらは、観客である者のほとんどには、人生の中てたった一度も出会ったことのないものだ。「言葉では伝えられないもの」と「言葉でしか伝えられないもの」がある。

さて、その「言葉でしか語れない部分」のひとつ。一作目「羊たちの沈黙」で、クラリスレクター博士の心理分析で、自分の原体験が父親の死であることに直面したのだが、それが原体験である以上、彼女の思考と行動のパターンの秘密もそこにある。彼女の、父親に対する複雑な感情を解きほぐしていく、小説の最後の部分は迫力だ。クラリスの場合、周囲の男性たちに投影されている感情が、つまりは、父親に対する正負両方の感情の投影だというところまで、「自分で」気がつくように、レクター博士がお膳立てしたのだが、実際にレクター博士がしたことは、クラリスの話にじっと耳を傾け、時折アドバイスをしたことだけだ・・・私自身も、読んでいて身につまされてしまう部分があった。私は、自分でもかなり重症のファザコンだと思う。いや、ファザコンだった、と思う。自覚してから長い時が経った以上、もうそれは既にコンプレックスではない。ただ、時折、そのかけらが心の片隅に見つかることがある。こと、男性に対して、強い好悪の感情にうっかり囚われる時、それは父親に対する入り組んだ感情からすべて発しているのだということに、ある時気がついたことがある。自分の恋愛に一定のパターンがあることに気がついた時だ。父親を愛していたのは嘘偽りのない事実だが、家族を抑圧して争いの種を蒔く父親に腹を立てていたのも事実なのだ。しかし、愛しているから、ネガティブな要素は、過剰な嫌悪感として他人に投影されてしまった。それをここでは詳しくは書かない。それに気がついて以来、好悪の感情にはだんだんと縛られなくなったし、自分の直観をすなおに信じるようになった。こちらに危害を加える人でもない限り人を嫌いにならなくなったし、「好きにならなきゃいけない」という強迫観念もなくなった。父親とは無関係に、私は私として好きな人間がいる。それでいい。

クラリスにしても私にしても、結局、中途半端な時期に父親がなくなってしまって、気持ちが行き止まりになってしまったのが、すべての発端だ。父親(母親)に求めている愛情や承認や保護や励ましなどが、全て必要な時期に満たされたのなら、成人してなおかつファザコン(マザコン)であることはないだろう、という気がする。成人してなおかつ父親(母親)、ないしは父親(母親)に見立てた他者からそうしたものを引き出そうというパッションが消えないのだとしたら、そして、それが得られないことに悪意を持つのだとしたら、それこそがファザー(マザー)コンプレックスだ。いつまでもループする心の迷路だ。恋人や結婚相手に代理の親を求める人は、少なくない気がする。しかし、結婚は共同作業だから、ましてや福祉事業ではないのだから、こういうのはうまくいかないと思う。

結局、クラリスとレクターは、最高のパートナーとして生きて行く、という小説での結末が、映画ではなくなってしまった。流れでは仕方がないだろう。映画を見て面白かった、という人には、ぜひ小説の方も、とお勧めする。