「フライ、ダディ、フライ」-(4)

映画>フライ,ダディ,フライ

(4)
2005.8.7
スンシンと鈴木さんの暑い夏は終わった。視覚情報に特に反応するたちなので、テレビドラマではなく、映画として特に期待することは、絵としての美しさが第一にある。その点、堤さんにしろ、岡田くんにしろ、須藤さんにしろ、身体能力が極めて高い、たたずまいが美しい役者が揃って、ごまかしのない映像で格闘シーンを見せてくれたことは、かなり快感だった。「お得感」がある。余談になるけれど、メイキングで須藤さんが素の顔と演技した時の顔をがらりと変化させるのを見て、すごく感動して、「優れた格闘家は、自分の身体のイメージを常人よりずっと強烈に持っている」というあるスポーツライターの言葉を思い出した。ポーズをとらせて何回か撮ったフィルムが、全部「同じ写真のようにぴったり重なった」なんてボクサーも過去いたそうな。話は戻って、相手のパンチをかいくぐって懐に飛び込む……これだけの動作は、徹底的に鍛え上げ磨きあげられた身体が初めてできること。よくよく考えてみると、ファンにとっては、バラエティやコンサートでおなじみの岡田くんの身体能力の高さをはっきりと見せてくれる映画に初めて出会ったわけだ。ファン以外の人がまだ目撃していない、岡田くんの「隠し球」はまだいくつも残っている。先が楽しみである。

ところで、変な話だけど、ポルノが日活映画からビデオに完全に移りつつあった頃、こんな評論を読んだ。ただの濡れ場の連続のビデオに比べて、映画ではちゃんとそのシーンに至るまでの「物語」があった、もちろん濡れ場見たさに見るわけだけど、それを楽しむためにこそしっかりとした物語が必要なんだと。男性の主観で、ポルノに関した心理が最も理解不可能なことなので、そんな話を聞いても「そうなんですか」としか言い様がない。だが、純粋にアクションを楽しみたい場合でも、同様のことが言える、と今気が付いた。人間が自分の筋肉の力を使って闘う理由を、現代の日本の都会という「場」の中でどういう風に置いたら、物語としての自然さが生まれるだろう。「あり得ない話」とは言いつつ、物理的、心理的ともにリアリティがある方がお話は断然面白い。そう考えてみると、人間は昔、もっと筋肉を使って暮らしていた、ということに行き当たった。そういう時代は、男性らしさだって今ほど抑圧されていなかったし、若さだってこれほど商品化されてはいなかった。暮らしていくために嫌が上にも筋肉を使うことから解放された時に、「自由に使って良い筋肉」だけが残って、今日に至っている。そして、ホワイトカラーの時代、学歴社会……。身体を退化させていく人間が大量に現われたのも、自然な流れだろう。物語の最初の頃の鈴木さんもその一人だ。その上で使うとなれば、つまりは、「どうつかうか」という思想の問題、魂の問題になっていく……戦いの物語を作っていくことで、二次的に見えてくる物はそれなんだな、と思った。スンシン流哲学の言葉が生きてくる。

しかし、いつも私が書いていることだが、力は人間をふたつに分岐させる。今大ヒット上映中の『スター・ウォーズ』から影響を受けたわけではなくて、かなり前から思っていることだ。『ダーク・サイド』という表現はかなり本質的な言い方だと思うので、時々拝借することもあるが、ちょうどあれと全く同じこと。善悪は、ちからあるところに発生するのだ。善とは人をして生命に向かわせるもの、悪とは滅びに向かわせるもの……そう定義してみても、大きな目でみた場合、とても混沌としている。
剣道やってた頃、強い人にはいくつかタイプがあるのに気が付いて、とても興味を持ったことがある。女子を完全に無視して、口もきかない、稽古も「こなしてる」感ありありの『女嫌い』。女子、特に美人と稽古する時だけ、ことさら気持ち悪いぬるい態度で接する自称『フェミニスト』。女と見ると、男子同士では危険技として封じている突き技をかけてきたり、足払いや体当たりをかけてきたりして怪我をさせる『狂犬』……ちなみに口癖は「女は甘えてる」だ。そして、強いのに、女子の実力に合わせて真面目に稽古してくれる上、普段は気さくに接してくれる人……ちなみに女子は全員彼のファンだった。
みんな同じように小さい頃から道場で剣道をやってきて、大会ではそこそこいける実力の持ち主だ。スポーツの中でも格闘技は特に「男性らしさ」を際立たせるものだから、女子が入ってくることにいろいろ複雑な思いがあったのだろうか、よくわからない。ただ、力を手にした時に、人間が取る態度には、両極端あるのだな、ということはよく分かった。いい勉強ができた。あれから、上の学校に進み、社会にも出たけれど、力のある男性はだいたいこの4タイプに収まるということもわかった。

いつも思うのだが、「力が人間を分岐させる」のはわかる。しかし、「どういう条件で分岐するのか」というのがわからない。鈴木さんが、石原を絞め落とした瞬間、あれがまさに「分岐点」だったのだな、と思う。負けた時じゃなく、勝てた時に、人間は自らの力に溺れて堕ちていく危険ながけっぷちにいるのだな、と。そうかも知れない。それはきっと、勝てた時に、他者に対する認識がどのように変化するか……それに一番影響されるのだと思う。その意味で、鈴木さんは、まさに「中身のいっぱい詰まった透明のリュックを背負っている」。それにしても「勝つのは簡単だ、問題はそれの向こう側にあるものだ」なんて、ティーンでそれを知っているスンシンって何者だよ、という感じだ。たましいが三十代半ばだから仕方がないか。こんな人、いると良いなと心底思った。

さてさて、そんなわけで、期待を裏切らないすかっとした映画であった。適度にうにうにするところも、隠し味っぽくていいね。というわけで、今年の夏は少し早いけど、これにて終了!