リスクについて考えたり

少し前になるけれど、勝間和代さんの新刊『会社に人生を預けるな』を読んだ。
例によって、娘の就活のための援護の一環としてである。
たぶん、未だかつてないほどの氷河期を迎えそうな、来年の新卒にとって押さえておくべき、大切な言葉がわかりやすく詰まっている、と思う。
リスク・リテラシー
あ、そうそう、余談だけど、娘の就活もそろそろ忙しくなってきて、つい数日前にも集団の面接があった。
そこで、娘が、「夢中になってやっていることに、どんなことがありますか」と問われて、高校生の時から続けているダンスと、小さい頃から先生についている英会話と、ふたつ出して詰まってしまったのだそうだ。
その上で、ちょっと考えて「最近、本をよく読むようになりました。月に五冊は読んでいます。勝間和代さんの本はすべて読みました。」と答えたら、「ほう」という顔をされたとか。
このご時勢で危機感の強い学生は多いはずだから、こういう努力をしている子も多いはず。
面接官の反応がとても好感触の場合でも、不合格ということがある、とよく言われることなので、「あまり過度な期待はしない方がいい」とアドバイスしておいた。
だけど、努力の方向としては間違っていない、と。これは私の直観である。
そんな中でも今回の新刊は、これから社会に出るにあたって、私が特に大切だと感じていたことのひとつについて書かれていた本だったので、自分で読んだ後に、娘には特に熱心に勧めたものだ。

リスクということで、ちょっと連想したこと。去年の秋の京都旅行のこと。
仁王様が二体立ちはだかる門の前で、ちょっと娘に薀蓄を聞かせたくなった。
阿行の仁王様は「帰れ帰れ!」と言っていて、吽行の仁王様は「よし、通れ!」と言っているのだと説明したら、娘は「どっちを聞いたらいいの?」と不安そうに言う。
その瞬間に自分でも答えがわかって、「それは自分で選ぶの。誰かの言うことを聞いているだけのように感じてても、結局は自分で選んでるの。そこから生まれるメリットもデメリットも、自分で引き受けるのよ」と。
こういうこと、言いながらも、結局自分自身に言って聞かせているのだな、なんて思う。
未来が未知のものだから、リスクの概念が存在するのだな。
そんなことも思う。

ところで、ふと思いついて、グーグルデスクトップを立ち上げて、「リスク」と入力してみた。
その一番上のページをクリックしたら、四年半前に書いた文が出てきた。
まだ、経済についての勉強もあまりしていない時点での、思いついたままの雑文だけど、今読んでみても、大筋ははずしていない、と思う。

や 山師 04/08/15
まったく同じことをさす言葉が複数存在するものがある。例えば「俳優」と「役者」など。ただし、ニュアンスがそれぞれの言葉でひどく違っている。何かを語る時に、どう言葉を選ぶかという、センスがものをいう。その「ニュアンス」であるが、それを言う人間の感情というか価値観のようなものが、前提としてにおっている場合が多々ある。
さて、職業にまつわる「価値観」というものには、いろいろある。収入が安定していて、例えばローンを組むのを断られないたぐいの社会的信用があるのを良しとする、という価値観がある。これなどはけっこう根強いというか、一般的に言って親が子供に望むのはこれである。そして、マジョリティたるサラリーマンはほとんどこのカテゴリーに入る。しかし、もちろん、こうした低め安定の、起伏のない、冒険もない人生を嫌がる価値観もあって、「リーマン」などの蔑称が生まれたりもする。
収入も将来も不安定だけど、万が一成功したら、サラリーマンには考えられないほどの栄光が待っている、という職業がある。プロスポーツの世界がまずそうだし、「アーチスト」というくくりで呼ばれる人たちもこれに入るだろう。そして、起業家も同じカテゴリーにいれていいだろう。もちろん、成功するものは、志した者のほんの一握りである。各ジャンルで、日本国内で、それぞれ数十人しかいない、なんて世界である。成功した者は尊敬の目で見られるが、未だ成功していない者は、蔑称で呼ばれる。その蔑称のひとつが「山師」である。
もともとの意味は、鉱脈などを掘り当てるために、「当たり」をつけて私財を投じることから来ている。仕事にギャンブル的な要素を持ち込む人間は、例えどんなにひたむきな努力をしている人でも、成功していない限り、その軽蔑から逃れることはできないように見える。そして、最後まで成功できないことだって、きっとあるだろう。
仕事にギャンブル的な要素を持ち込むことがいけないのだと言っても、例えば小さな商売をやるにしても、ギャンブル的な・・・と言って語弊があれば、不確定の要素というのは、必ずあるものだ。約束されている成功なんてものは、ほんとうは幻想でしかないのではなかろうか。サラリーマンが安定しているかのように見えるのは、会社という組織が、不安定を吸収するクッション材の役目を果たしているからであって、不安定そのものが存在していないからではない。もちろん、あまりに不確定な幸運に寄りかかり過ぎるのは、射幸心に過ぎないのだろうから、仕事をする上で決して良い心構えとは言えないだろう。従って、そのリスクをどれだけ負うか、それが分相応かが問題のポイントだと思う。
実のところ、職についていない主婦が、井戸端会議で、「山師」という言葉で、未だ成功していない誰かを貶すのが、子供の頃はとても嫌いだった。彼女たちは、その人間が成功した途端、自分達がそれまで言い続けていた陰口など忘れて、さも自分はずっとその人を応援してきたかのように言うからだ。そして、その人が栄光からすべり落ちると、褒めそやしたことをすっかり忘れて、ほらごらん「山師」はやっぱりこういう目に遭うんだ、と言うからだ。私は、そんな大人になりたくないと抵抗したけれど、やっぱりなってしまったろうか。とても恐い。

『会社に人生を預けるな』の中に、化粧品や食品のリスクについて書かれている部分では、20年近く前に読んだことがある本が出てきて驚いた。
娘がアトピーになって、原因がわからない病気だということで、「疑わしきは罰す」の精神で、暮らしの中からリスクの高いもの……特に化学物質……を排除していったことがある。
その時に集中して読んだものの中のひとつだ。
初めて知るようなことばかりで、「うそー!」なんていちいち驚きながら読みつつ、生活を徐々に変えていった。
ちなみに、娘のアトピーは、小学校の低学年の頃に完治した。
それをパソコン通信掲示板に書いたところ、「そんな神経質になることで、心や体のバランスを崩すリスクも無視してはダメ」というレスポンスがあった。
確かに、それには一理あるのだけど、私は、漠然とした不安にとても弱いたちだったので、ひとつひとつリスクというものを具体的にわかるものにして、それに着々とかつ黙々と対処する、という方法が性に合っていた。
何という漫画だったか、あるバンドのボーカリストが、コンサートを直前に失踪し、当日に、女性もののサンダルを持って帰ってくる、というのがあった。
それまで囚われていた不安は漠然としていて戦いようがないけれど、このヒールの高いサンダルの不安には「形」があるんだ、と言って、そのサンダルを履いて歌う。
つまり、リスクを意識すること、というのは、結局、見えない不安を見えるものに変えて、対処できるものにすることだと思うのだ。
この漫画のとはちょっと違うと思うけど、つまりは失敗とか、破滅とかのパターンは、連続量のようなものだから、それを細かく分解して、ひとつひとつだったら予防もできるし、失敗しても他の成功で吸収できる、と。

何だか、はずしているような気もしないでもないけど、私なりの感想、でした。