『ゲド戦記』感想つづき

原作を読んでわかったこと。
ゲド戦記』の世界では、魔法使いは、物の真実の名を知ることによってそれを自在に操る力を得る。人間にもそれぞれ真実の名前があって、それを知ることで、その人間を支配することができる。『ゲド』というのが、通称『ハイタカ』なる大賢人の真の名前であり、物語のタイトルとなっている。ちなみに『ハイタカ』というのは、彼が少年の頃、並外れた魔力によって空の鷹を自在に呼び寄せることができたことから名づけられたニックネームである。
しかし、映画の中では、敵の魔法使い クモすらその真の名を知らない。ただ一人、テナーという女性だけがそれを知っている。この関係にちょっぴりエロチックな感じがする。ラスト近くで、アレンとテルーがお互いの真実の名前を教え合うところも、愛の告白めいて、とてもロマンチックだ。教えてもらった名前をそれぞれがつぶやくように復唱するところが、またいい。二人とも、いい声してるし。大好きな人の名前って、特別なものだから。うん? でもそれって、お互いがお互いを支配する、という構図になってしまって、もぉロマンチックの二乗倍だ。

ところで、この「真実の名」というアイテムが、ずいぶん前にオカルト系のコミックで使われているのを見た。産みの親しか知らない名前で、それを他人に知られると運命から何から根こそぎ支配されてしまうから、封印しておく。ところが、ひょんなことから、一人の少女の真の名前がライバルの少女に知られてしまい……そういう話だった。このコミックは、日本古来のオカルトや妖怪を研究して編み出されたものだから、この真の名前にまつわる物語も、日本に古くから伝わる慣わしや言い伝えを基にしているはずだ。案外、こういう慣わしがあるところは多いのかも知れない。
インディアンの場合は、名前に特別な重みがある気がする。映画『ダンス・ウィズ・ウルブス』は、インディアン社会で、『狼と踊る男』と名づけられた白人男性の物語だ。彼は、子供の頃にインディアンに拾われた白人女性『こぶしを握って立つ女』と結婚する。それぞれの名前は、印象深いエピソードを基に、長によってつけられた。成人してからのネーミングは、生まれたての赤ん坊につけるのとは違い、その人の群れの中でのポジションをよく表している。『狼と踊る男』は、この女性がなぜ『こぶし~』と呼ばれているか、そのいきさつを聞いて、決定的に惚れてしまうのだった。

『アレン』という名は、剣という意味だとハイタカは言った。アレンは、生まれたときから世継ぎという宿命を背負っている身だから、「ために生み出された」のだし、名前も「そのためにつけられた」はずだ。スチューデントアパシーにかかる学生は、父親が立派な人が多い、という研究報告がある。父親が立派だというだけで、もうテルーのいうところの「ひどいことされた」のと同等の心の傷になるのかも知れない。その意味で、子供が捨て育ちが当たり前だった昔の頃に比べて、今は子供一人ひとりの、このプレッシャーもずいぶん重くなってきているから、「アレンは現代人の姿だ」という試写会での意見は、とても的確なものだと思った。

つづく