『ゲド戦記』三回目見てきました

五日間の夏休みをもらったので、『ゲド戦記』の三回目を見てきた。原作を平行して読み進めているので、発見がいろいろあって、また面白い。
ゲドの顔の左頬にある白い大きな傷跡。これは、『ゲド戦記』第一巻の『影との戦い』で、まだ少年だったゲドが、自分の力を誇示するために死者を呼び出す魔法を使い、一緒に呼び出してしまった影に襲われた時のものだ。というわけで、ゲドらしさを真っ直ぐに表す身体的特徴と言える。つまりは、ゲドは、生涯をかけて生と死の問題と向き合う者であることを、顔に刻んでいる存在ということ。

ゲドが、「均衡を崩すことの出来る生き物は、たったひとつしかいない。わかるか?」とアレンに言う。「そんなの人間に決まってるじゃない。謎の内にも入らないわ」と心の中で私は答える。でも、アレンの年頃の時には、私も答えがわからなかったろう。それは、人間は生き物だとリアライズしていないことから来る。

「死を見つめて生きろ=メメント・モリ」と言う言葉を私が知ったのは、いくつの時だったろうか。
高校生の時、この言葉を知ったのだが、やっぱり深いレベルで理解できたのはそれから十年も経って子供を産んでからだった。それまでは、やっぱりアレンと同様、不安だったような気がする。アレンの姿というのは、若者の共通の姿なのかも知れない。

だから、ゲドが、永遠のいのちを手に入れようとするクモの操り人形になったアレンに、話して聞かせる長い台詞。全編通してあの台詞が一番好きだったし、ゲドはあれを語る資格のある人物だと思った。しかし、「説教くさい」という感想を持つ人がたくさんいることも知って、実に興味深く思う。しかし、あの言葉をじかに受け止めることができない人間は少なくないはずだし、そういう人間は、あのテーマを「映像で」表現してのけても、決して共感には至らないと思う。だから劣った存在だとは言わない。ただ、人間が他のどの動物よりも死のストレスを強く感じるように、構造上できてしまっていること、そのために均衡を崩しがちな危険な存在であることは、社会のあり方を作ってきた大きな要素だと思うし、未来の鍵だとも思うので、単純に「説教くさい」だけで片付けるのは損だと思う。

話は変わるが、ちょっと遅くなったけれど、舞台挨拶での話。岡田くんが、緊張しているテルー役の手嶌さんに「シャイな二人でやっていこう」と言ったとか。粋なことを。鈴木プロデューサーがそれを気に入って、「シャイな三人でやっていこう」とやったら、ブーイングが起こったとか。緊張するとうまくしゃべれなくなってしまう人には、そもそも緊張しない人と、緊張すると饒舌になる人との区別があまりつかないらしいので無理もない。いや、鈴木プロデューサーがどっちなのか、私もわからないけれど。

同じものなのに、一見真逆に見えるもの。『ゲド戦記』には、そんなことが語られる。また、求めることが遠ざけること、みたいな逆説も。テルーの言う「永遠に死にたくないと言うのと、死んでもいいと言うのとは同じこと」からはじまる言葉の数々。それでふと思い出す。若い頃、私がよく見る悪夢に、何かから追いかけられるのと、誰もいなくなって一人っきりになるふたつのパターンがある、と言ったところ、「なんだ同じ夢じゃないか」と言ってくれた人がいた。その人は大人だったけれど、テルーはまだ少女だ。それでも、死ぬほどの体験をして、これが言える者になったのかも知れない。そして、原作では、ゲドが魔法の修行をするローク島の住民は、問われたことに対して、逆説を用いた不思議なことを言う。体験と、それをどう昇華するか……人間の深さは、それによるのだと思った。では私も『不惑』の40歳は、何とかぎりぎりクリアできたので、『知命』の50歳目指して頑張るとするか。


つづく