『ダーク・ウォーター』

先週の金曜日、レイトショーで『ダーク・ウォーター』を見てきた。

客席にたった四人しかいない映画館で、深夜ホラー映画を見る……私としたことが何と言う暴挙に出てしまったのだろう。それもこれも、娘が友達と見てきて「お母さんと私のお話をやってる」と言ったからだ。私がまだ幼い娘を連れて家を飛び出し、母子家庭をはじめた頃にそっくりな母娘が主人公で、見終わった時に無償に私に会いたくなったんだとか。ぎゅっと抱きつきたくなったと。
それ以前に、和製ホラーの『仄暗い水の底から』のリメイクで、どうやら名作らしい、と聞いて興味はもっていたのだが、それで決定的に見たくてたまらなくなり、勇気を出して見にいった。そして、それは紛れもない名作、傑作だった。

それは、「見た・感じたことのある」ものの連続だった。お金も物も頼れる人もいない母子家庭の、心細さ、みじめったらしさ。幼い子供を抱えていることから来る、生き辛さ。それを補おうとばかり娘へ惜しみなく注ぎ込まれる愛情。そんな母親の戦いを嘲笑うかのように、かさにかかって母親の「親の資質」を批判する別れた父親。母娘をとりまく冷たい人々。これは、全部私のものだ。娘は、六歳の少女に自分を重ねて見ていたそうだが。
人間らしい暖かみがない灰色の建物や、川に挟まれて湿気が常に淀んでいるような低所得者の居住区、ルーズベルト島。それらが、この悲しいお話の舞台だ。繊細な母親は、その幸薄い生い立ちによって、その繊細さが磨かれてしまったのかも知れない。彼女に次々と起こる小さな不幸の積み重ねも、結局はそれが原因なのかも知れない。子供を注意深く育てるために備わっているであろう細やかさによって、孤立した母親は自滅していく。見ていると「誰か助けてあげてよ!」と大声で叫びたい。根っから悪い人はいない、出て来ないのだが、みんな少しずつ無神経で怠惰で分からず屋だ。それは、根っから悪いよりひどい時もある……そう痛感した。
『ホラー』の部分は、結局、給水塔に落ちて死んでしまった少女の霊が、形をとって最後の方で現れることだけだ。オリジナルの方で『霊障』となっていろいろ表れていたものは、すべて超常的なものでもなんでもなく、説明のつくものとして描かれていた。この当たりのオカルトに対する制作者の姿勢は、私にはとても好感が持てる。
死んだ少女は、両親が、それぞれ配偶者が娘を連れていったんだろうと勝手に思い込み、置き去りにされた。こんなリメイクでの変更に、この映画の強い主張を感じる。本当に恐いのは幽霊よりも、生きた人間だということ。他者……自分の子供に対してすら……に対する無関心さであり、そんな個人が織り成す人間の世の中の恐ろしさではなかろうか。
ところで、母親は最後、娘をかばって死ぬ。そして、「いつまでもあなたを見守っている」と言って、娘の髪を三つ編みにして消える。死者は、恐怖の対象などではない。それは、絆を持った人間のこころがうみだす、日常の一部なのだと思う。

ジェニファー・コネリーが、もう信じられないくらい良かった。子供への愛情の細やかさ。辛い日常を懸命に生きていく健気さ。娘を救う為にドアを蹴破って、強化ガラスを叩き破りかける母親の必死さ。ブルック・シールズのちょっと後にブレイクして、世界一の美少女とうたわれた人は、30代のいま、美しさの中に憂いと強い感受性を秘めた、素晴らしい女優だった。これが私には一番の収穫だったかも知れない。