映画>『ハンニバル・ライジング』

前作からずいぶん時が経った。前作の時点で、続編がもし作られるとしたら、老境に入ったレクター博士について、それなりの結末が描かれると予想していたのだが、予想は見事にはずれた。前作の原作を映画化するに当たり、大幅に割愛されていた、レクター博士のトラウマについて、今回は時間をさかのぼって描くことになった。これはかなりショッキングなので、小さい子のお父さんお母さんにはお勧めできない。今回、レクター博士の異常な行動についての因果がはじめて明かされる、ということだろう。そこが前作の映画で私が不満に感じていたことのひとつだったから、今回の「ライジング」は嬉しいことのはずだった。

感想はと言えば、「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」を超えるには至っていない、というところ。確かに「ダーティー・ハリー」じゃないけど、最初に犯罪を犯した者が何の罰も受けずにいるのを放置していいのか、という強いメッセージには共感する。だけど、主人公がどんどん人間らしさから離れていくことで、感情移入を途中で放棄せざるを得ない。その点は、「見る主人公」を設定して、ハンニバルを「見られる主人公」とした前作の優れた点だった。人々がただその狂人に怯えるだけのホラーに成り下がっていないところが、このシリーズの優れてユニークなところだからだ。もうなんだか、ハンニバルがきれいな顔をした悪魔にしか見えない。にやっと笑うたびに、ぞわぞわしてしまう。たった十歳で父母をなくして、幼い妹を必死で守っていた、あの賢くて健気な少年はどこへ行ってしまったのやら。警部が「少年は雪の中で死んだ。今の彼はモンスターだ」という言葉、私の代わりに言ってくれたのだと思った。
それにしても、戦争ともなれば、こんなことは当たり前にあるんだろうな、と思う。

こうやって見ると、ハンニバル・レクターが殺人に染まっていくプロセスというのは、「羊たちの沈黙」で、ハンニバル自身がクラリスにヒントを渡した「連続殺人において、一回目の殺人と二回目以降の殺人は意味が違う」という理論そのものだ。人間は、高い障壁を飛び越えないと殺人なんて大それたことはできないものだけど、はずみで一回やってしまったらあとは全部同じになってしまうのかも知れない。タブーになっているものは、案外すべてそういうものなのかも知れない。

ハンニバルの場合は、大好きな女性が侮辱されたことへの仕返しだった。これなどは、「羊たちの沈黙」で、獄中にハンニバルを尋ねてきたクラリスを侮辱した隣の独房の囚人を、言葉だけで殺してしまう動機と同様のものを感じる。「羊たちの沈黙」「ハンニバル」の原作を読むと、ハンニバルの中で、彼が絶対に傷つけることのないカテゴリーの人々と、何のためらいも感じず殺せてしまう人がはっきりと区別されていることを感じる。紫夫人のような気品のある美しい女性は、ハンニバルにとっては母親や妹と同カテゴリーの人間なのだろう。コン・リーは、東洋的神秘と艶やかさをもった、美しい日本人女性を見事に演じていた。広島で肉親をすべて失い、夫を失った哀愁を瞳に漂わせていた。日本人とはちょっと感じが違うけど。この人が下品な肉屋から嫌らしいことを言われてお尻まで触られたのに若いハンニバルが怒るのは無理もない。ここまでは理解できる。クラリスも同様。
また、「ハンニバル」では、パッツィ刑事の夫人をはったりで人質にするのだが、楽譜をたどりながらコンサートを楽しんだり、ビオラ奏者が変わったことで音楽がよくなったと理解できる教養高い美しい女性を、ハンニバルが間違っても殺すはずがない。この「はったりの人質」と言えば、今回かたきの娘を同様に人質にとったとだますのだが、ハンニバルを知っていれば可愛い少女を殺すわけがないことは自明だ。でも人の世では、こういう女性や子供が被害にあいやすい。被害にあうのは、悪い人間だからではなく、力が弱いから、という理由の方が大きいからだ。そして、ハンニバルの獲物は、「そういう被害を加える者たち」なんだと思う。でも、だからと言って加害者を殺すほどのことはない、と思う。ここが常人と、すさまじい過去を背負ったハンニバルの違いなんだろうか。

ハンニバルがずば抜けた知性を持っているのがとても怖い。まだ二十歳前の若者が、先を先を読んで、妹の敵をひとりひとり殺していくところなど。前作で描かれた、見たものを見たまま絵に描ける才能、鋭い嗅覚、刃物を扱うことの巧みさ、音楽への造詣、などもこの頃から既に備わっていたことも。
余談になるかも知れないけど、それで思い出した。
東大生が事件を起こした時に、東大のキャンパスで現役の学生に任意にインタビューをしたりすることがある。スーパーフリーダム事件の頃、インタビューに際して「東大という点をクローズアップさせて、世間の人は溜飲を下げたいんだろう」と答えていた学生がいた。この大学においては、だいたいこの手の自己防衛的な答えがほとんどだ。レイプ事件の際の京大生の「同じ大学の者として恥ずかしい」という答えと対照的なので、とても印象的だった。彼らの言うように、東大の不祥事にいい気持ちになってしまう「世間の人」もいるかも知れないが、世の中が大騒ぎする理由はもっと別のところにあると私は思う。それは、力の濫用に対する警戒心だ。知性の低い者の成す悪より、高い者が成す悪のほうが、ずっと甚大な被害をもたらすということは、サリン事件などを例に出すまでもなく、多くの人が実感していることだろう。日本の最高峰である東大の人間に、それに見合う徳がないことに恐怖を感じるのは自然な感覚だと思う。
そんなことを考えていたら、この「高い知性を持ち、徳のない人間」の恐ろしさをレクターほどアピールする「物語の人物」はほかにはない、と気がついた。そんな人をスターにするわけにはいかない。カニバリズムを描く理由のひとつは、案外このあたりにあるのかも知れない。映画の中にたくさん出てくる、魚や鳥や食肉をさばくシーンが、なぜかとても生々しくおぞましく感じた。吐きそうだった。この映画をこれから見る方には、鑑賞の前に十分に時間をおいて食事を済ますことをお勧めする。

まだ原作は読んでいない。今回は「見てから読む」方を選択した。今までの例だと、映画と原作にはそれぞれの面白さがあって、個人的には原作の方に軍配を上げたいのでそうした。読んだらまた感想を追加したい。あと、前作を見た頃に書いたものを「過去倉庫」にアップした。