『降ってくる』もの

明日は、娘の高校の文化祭初日である。娘は、ダンス部の3年生、今回が高校生活での最後のダンスとあって張り切っている。娘の所属するダンス部は、全国大会にも出場するレベルの高いクラブなので、私もかなり楽しみにしている。
ところで、最近、娘からこんな話を聞いた。娘のクラブでは、大会やセレモニーのために、自分達でダンスの振り付けを考えるのだが、時間もかかるし、なかなか大変なようだ。ところが、あるダンスの先生の息子で、いわゆる『構成』で振り付けすることはできないのだが、振りが「降って」くるため、音楽に合わせて通して踊って、それをビデオにとるなり振り移しするなりして振り付けする、という男性がいるとか。まるで、おしゃべりな人が、意識せずとも流れるようにしゃべるように、踊ることができる、というのである。
二十年以上も前のダンス映画『フラッシュダンス』の主人公も、突発的に踊って、同じものが2度とできない、という才能の持ち主、という設定だった。ピアノを前にして、作曲するのと同時に演奏する『コンポージング・ピアニスト』もそうだし、モーツァルトは、楽曲がいっぺんに全部頭にあったというし、アートの人たちも何か『降ってくる』と言う。
もちろん、短いピースのようなものは、人間であれば多少は『降ってくる』ものだと思う。赤ん坊だった娘を抱いて、車通りの激しい道をとてもいらいらして歩いていた時、『はじめ人間ギャートルズ』の石の文字のように『世界が私の赤ん坊を殺そうとしている!』なんて言葉がどかーんと降ってきたことがあった。これ以上はないほど、気持ちとぴったりのフレーズだ。そんな感じのことは、誰でもあるんじゃないかと思う。その言葉がなければ、できるだけ安全そうな道、安全そうな時間帯を選んで行動しよう、なんて気をつける気持ちにもならなかったかも知れない。自分がどうしていらいらしているのか、自分でも掴めてなかったからだ。
ひとつのまとまりをもった芸術表現として、『全部降ってくる』という体験は、どんなものだろう。それを体験してみたくて、目下、言葉磨きの修行をしているのだけど、道はまだ遠い。その修行のひとつとして、明日、また講習会に行ってくる。