『宗教って何ですか』 05/06/12 中沢新一さん

-6/12放送
中沢新一さん
テーマ:「宗教って何ですか」
今回は、岡田くんがずいぶん楽しそうで、こっちまで嬉しくなってしまった。確かに、個人的に言ってもとても有意義な時間を過ごさせていただいたと思う。
ずいぶん前に、ドラマの感想文でだったと思うが、ある少年が「神様なんかいない」と思い、神様と最も離れていると思う物理学にいくのだが、信仰を持っている物理学者がいることに腹を立てて脱落するというのがあった。それに対して、「物理学はキリスト教の落とし子だから、神がいないと思って信仰から離れたかったら、神をあくまで概念として研究する学問にいくべきだった」と述べた。もちろん、私が日頃抱いていた「感じ」を文字にしたのに過ぎないのだが、宗教学者の方に、それを裏付けるような言葉を言っていただけると心強い。この世界が、実はWASPキリスト教をベースにして押し進められてできたものだという視点を一番最初に知ったのは、物理学の本からだった。その後、構造主義についての解説の中に必ず取り上げられている、人類学者のレビィ・ストロースの研究などにも、そうしたことを感じた。地球を盤にしたオセロゲーム……そんなイメージを持った。
一神教は、自然から離れて高いところに行ってしまうから、人間もそれに引きずられる……精神を神聖視し、肉体を軽視することも含めて……確かにそうだ。そして、それは現代のあまたの病理の根でもあるな。ダメだってことがわかった以上、その根源が否定、あるいは修正されなくてはならない……世界は今、そういうところに来ていると思う。そういう意味では、過去さんざん批判されてきた日本人の無宗教も、再評価されていくのかも知れない。とても良かったと思う。「一元的な価値観が世の中を悪くする」とずっと言い続けてきた甲斐があったというものだ。
さて、岡田くんにとっては、ひょっとして一番興味があることではなかったかと思うのだけど、「祈る」とは何か、「悟り」に至るにはどうしたらいいのかという部分でも、とても興味深いお話を聞かせていただいた。「悟り」というのは、自分から行くのか、自分の中で拓かれるのか、という質問、本当に良い質問だったと思う。これについては、いろいろたぶん本で読んだことが多いことだと思うのだけど、釈迦もイエスも、苦行の果てに悟りに至るのだけど、そうやって自分から「行きたい」と願って努力した後に、それはやってきた、ということだ。負荷なくして悟りは得られず、と。ところで、沖縄の言葉で「かみがーり」というのがある。ある種の激しいトリップ状態になることだが、34歳の時に心労が積もって陥ったことがある。例えば腕にはめている腕時計が、「何と言う名前で」「何をする道具か」ということがわからなくなったりするような、世界が解体してしまう感覚だ。一週間ほどしたあと、すっきりとしたのだけど、すべてが変わって見えるようになった。書くものががらりと変わった気がする。すべては脳がやっていることだし、「悟り」も、脳のある種の状態を指していることには違いない。そのおかげで本当のことが見えるようになった、なんて傲慢なことはとても言えないが、以前より少しは囚われているものが減ったかも知れない。「一番大切なものは」なんてことを常に考えるようになった。そうそう、自由でいるためにこそ、自分を律する、なんてことも。だから、お話にとても親近感を持った。