映画、「ヒメアノ~ル」を昨日、娘と二人で見てきた。
見終わった後、娘がどうしても気分がすぐれないというので、かなり時間をかけて散歩したりウィンドウショッピングしたりして気分を変える努力をした。
それでもなお、後ろから誰かが付けてくるんじゃないか、駐輪場に誰か隠れてないか、家の中に誰かいるんじゃないか、という強迫観念に苛まれている模様。
ちょっと薬が効きすぎたみたいだ。
過去にもストーカーっぽいことがあったりして、それなりに危機感があったはずなのに、今さらながら「絶対的な悪意を持った人間に狙われたら、現代人なんて脆いもんなのね」なんて感想を言っていた。
確かに、私も劇中の、セキュリティの甘い戸建てや集合住宅の類いや、咄嗟のことにすくんでしまう人々にイライラする。
ただ、なぜか私は、娘ほどはショックを受けなかった。
平素から、この手の残虐事件がニュースになるたび、それが自分や家族にも起こり得ると考えて、想像を巡らせ、それを回避する対策を「あーでもない、こーでもない」と考えて実行するのが習慣だから、だと思う。
例えば、駅のホームからの突き落とし殺人があってからというもの、絶対にホームの縁にいかない上、足を踏ん張って立つのがほぼ習慣になったり。
守るものがあるのだし、迎撃する力にも恵まれていない以上、予防に勝るものはない。
そこで考えた。
「ヒメアノール」というタイトルが、猛禽類のえさとなるトカゲのことで、捕食者の犠牲となるしかない弱者たちを表している、と聞いて、次のようなことを。
この世で、最もたくさんの人の命を奪う生き物は蚊だそうだが、二番目は人間だという。
古代は殺人で亡くなる人の数はもっと多かった。
埋葬者の四分の一とか、それくらいの遺跡の話も聞いたことがある。戦争のせいかな?
これはもしかしたら、生き物としての宿命なんではなかろうか。
生態系のトップに立ったものは、その系のバランスを保つために、個体の数を調節する。
熊の雄は母熊の連れている小熊を襲い、ライオンの雄は群れを乗っ取るたびに子供を皆殺しにし、イルカをはじめとするクジラ類の雄は幼児を惨殺する。
人間も、生態系のトップに立ったが故に、それと同じことがたびたび起こってきたのではないのかな。
でも、そこは自分を作り替えて野生から離脱した人間のこと。生存確率を高めるためにこそ、平和で安全な社会を着々と作り続けてきた。
いつものことだが、ある程度それが確立してしまうと、それが当たり前になって、前提としての危機が「ないもの」になってしまうところが危うい。
本当に犠牲になった人たち、脆かった。
なんで人殺しに背を向けて逃げる! とか
なんで窓が割られていることに、入る前から気がつかない! とか
なんで変な人間に派手な反応をして刺激する! とか
なんで素性の確認できない相手に息子の住所をべらべらしゃべる! とか(私の母親もこれをやった)
でも、人の輪の中に入れないサイコパス、捕食者たる森田くんも、弱い個体なんだなあ、と思えてきた。
もう、とっくに何の未来もないんだろう。
ラストシーンが、本当に悲しかった。
それにしても、森田剛くん。以前からただ者じゃないとは思ってたけど、凄いわ。
こんな役できる人、他にいない。
何の感情も読み取れない顔なんて、表情にとびきり敏感な私には、プチ拷問みたいだった。
嘘をついている時に、それがわからないところが特に。
最後の当たりで岡田くんが、高校時代に森田くんを騙していじめの相手の元に連れて行って一緒に笑ったことを謝罪した時、「お前あの時いたの?」と言う。
実はあれも嘘で、本当はあれに一番絶望したんじゃないだろうか。
読み取れない分、そんなことをいろいろ想像した。
暴力シーンそのものより、こっちの方が怖かった。
というわけで、とてつもなく重い映画だけど、お勧めです。