『ココロについて教えてください!』 06/02/26 香山リカさん

以前から、ちょっと感じていたことがある。
例えば、子供を観察すると、自分の家の経済や地位などの認識がどの時点で生まれるかというと、遅い子でもだいたい十歳くらいだと思う。
その頃から、親のステータスをネタにしたいじめが発生する。
でも、それ以前の年頃だと、今欲しい物を買ってもらえない、ということはわかっても、自分の家が貧乏だから買ってもらえないんだ、とは思わない。
つまり、『貧乏』という概念が生まれなければ、今、欲求が満たされなくて辛いだけで、『苦にする』要素はない、ということになる。
今、たまたま『貧乏』がわりやすいので例に引いてみたけれど、もし、人間が何かを苦にしているとしたら、それは同じような理屈が働いているのではないか、という気がするのだけど、どうだろう。

そんなことを感じた理由、というのは、香山先生が書かれた本(タイトルは失念した)の中に、『平気で嘘をつく人々』なる心理学のベストセラー本の批判がされていたことを思い出したからだ。
私が漠然とその『平気で~』に感じていた、もやもやした不信感みたいなものを、きっちりと筋道立てて明確にした上、その対象を批判されていたので、気持ちがとてもすっきりした。
何もないところに、著者の好悪の感情を根拠にした『邪悪』というレッテルをもってくることで、なかった精神障害がでっちあげられている、という切り口。
それで思い出したが、エッシャーの絵の中に、天使と悪魔がお互い、切り絵の「ネガ」と「ポジ」になっているものがある。
何もない紙から、天使を切り取ったから、その残りが悪魔になった(された)のだ、というメッセージ性を感じる。
つまりは、二元論が、ありもしない悪を創造するのだ、と。
根拠のない悪の創造こそが、『平気で~』の著者の言う「邪悪さ」以上の「邪悪」ではなかろうか。
実害がある、という点において。
それと同様なメッセージを香山先生の著書にも感じて、気持ちが楽になった。

しかし、そんな先生でもやっぱり「人間だから醜いところはいっぱいある」なんて、つい言ってしまうのだな。
自分が批判した相手とまったく同じミスを犯すのは、私もついやってしまっているかも知れない(自分じゃわからない)けれど、このテーマの中での話しだったので、少し失望した。
あと「客観的に見た『あなたはこう』」という『客観』も、つまりは言う人間の主観に過ぎない。
差別的な人間がよく口にする「○○はこうだ」という評価だって、その人にとっては「客観的な意見」に違いないのだから。
主観だから間違っているとか、客観だから正しいとか、特に、価値判断を伴っている時には、どちらとも言えないと思う。というか、そもそも絶対的なものではないのでは?
しかし、子育てをした感触からしていくと、必要以上に悪い自己評価をすることで良いことが生まれることはないので、その件については確信犯的に思考停止することを推し進めたい。

あと、『普通』とか『常識』とか、無造作に使っているところも、ちょっとがっかりした。
これって、曖昧すぎて流動的過ぎて、基準として機能しないと思うので。

岡田くんが、「こういう人」よりも「こうありたい」というのが云々、と最後にコメントしていたけれど、「こうありたい」と思うことを含めてその人だと私は思う。
私は、岡田くんのそういうところが好きなんだな、とも思った。
倫理的なのに、責められている気がしなくて、ゆったり楽なのに、同時に気持ちがしゃんとする。
つくづく不思議な人だな、と思う。