すでにブルーディスクが発売されている今になって、感想を言う、というのもあれだけど。
我がアイドルの映画に関してだけは「観てから読む」派を貫く、ようなことを書いておきながら、「図書館戦争」はコミック止まりで、原作はまだパラパラとやっただけで読み始めていない。
アニメはHuluでやっと全部見終わったところ。
それだけでもひとつ気がついたことがある。
表現の自由を命を賭けて守る人々の物語であるこの作品が、現実のメディアでの「表現の限界」にそれぞれぶち当たっている、という面白さ。
実写ドラマの小牧、毬江カップルの物語は、アニメでは自主規制で未放送なこととか。
しかも、このドラマ自身が、聴覚障害者に対する「配慮」という形の、実質的な差別をテーマにしているところとか。
例えるとしたらエッシャーの「版画画廊」。
作り物が現実の一部になり、更にそれが作り物の一部になっていき、ついには自分自身も作り物の一部になっていく騙し絵を見た時のような、快感をおぼえる。
面白い。
あと、本を守ることに疲れて変節してしまう人たちの描写や、査問委員会の内側に対する警戒心の強さとかも、とても面白かった。
そうだ、何であれ、原点がどれだけ美しくても、きれいごとだけじゃ済まないはずなんだ。
こういうところは、ドラマ&映画の「SP」の「嫌なやつをなぜ命を賭けて守るのか」という問いと通じるように思えて興味深い。
あの時に心に浮かんだ答え。
個人を守っているようでいて、実際は、要人暗殺は不可能、という仕組みをキープする営みなんだってこと。
国体の維持の重要事項だと思う。
本を守ることは、表現する自由、表現されたものを享受する自由を守ること。
見たところ、商業的に流通しているものの中で、一番表現が自由なのは、本、だ。
しかも摂取するのに一番精神力が必要なせいか、中身が読者の一部になって、変化をもたらす。
為政者による焚書の歴史も、そのためだと思う。
タスクフォースは率いる人たちも闘う人たちも、自由を守るって点でぶれないのがすごい。
たぶん、一番高度な技の持ち主たちは、全体の中でも最もブレの少ないチームなんだろう。
こんなところは「永遠の0」にも通じるものがある。
強くなればなるほど、見えるものが広がる、というか。
ここでは堂上がエースだ。
・・・結局、我がアイドルのはまり役はそこなんだな。
ところで、良化隊にもたぶん守りたいものがあるから、あそこまでやるのだろうな。
それは何なのだろう。
本を焼くのは、言論の弾圧に有効だけど、その言葉を紡ぐ人間を抹殺してしまうのが、本当は最も効率がいい。
歴史はそれを物語っている。
というわけで、もし映画の三作目が作られるのであれば、革命編の「作家狩り」をぜひ取り上げて欲しい。
良化隊と図書隊の戦いは、そこでやっと一段落するわけだし、
郁と堂上の恋の行方は・・・うーん、行くところまで行くのは情報として知ってるけど、あまりセキララに描くと、R18になっちゃうもんね。
話はいきなり飛ぶが、最近、江戸川乱歩の「人間椅子」を読んだ。
今年はじめに青空文庫に登録されたため、好奇心でダウンロードして読んだのだった。
ちょっと気持ち悪いけれど、目に見えるような描写もどんでん返しもすばらしく、感動したため読了してすぐ、Wikipediaで江戸川乱歩について調べてみた。
ひとつ重大なことを知った。
乱歩は、戦中に「芋虫」を発禁にされて後、旧著が絶版になり、終戦まで探偵小説を執筆できなかった、ということ。
乱歩ほどの大作家が、だ。
図書館戦争では、「あり得ない」こととして国家権力が本の検閲をしている世界を書いているけれど、何のことはない、それはたった70年ほど前にこの国でも行われていたことだ。
軍部は消滅したから、もう二度と言論弾圧はない、なんてことはない。
同調圧力という形の暴力が、民主主義のこの国で、いつ法の形をとるか誰にもわからない、と思うのは私が世間知らずだからだろうか。
もっと言ってしまえば、テレビ番組の視聴率は1%で100万人くらいの視聴者がいることを表しているそうだが、500万人が見ている番組を、0.02%の人間が「誰それを出演させるな」と喚いたという理由で、出演者を降板させるって、どういうことだろう?
他の視聴者の楽しみが、そうやって奪われる事態は健全ではないと、私は考える。
嫌だと思うのなら黙ってチャンネルを変えるのが大人の対応だろう。
お金を払っているわけでもないのに。
局側は、視聴率で出演者の採用・不採用を調節するだろう。
タレントとして駄目な人は、それで淘汰される。
厳しいけど、一部のクレーマーに従うより、ずっと健全だと思う。
こんなところにも、同調圧力を感じている今日この頃。
ちょっと脱線したけど、図書館戦争を見て感じたこと、でした。