戯曲『カリギュラ』アルベール・カミュ

カミュの『カリギュラ』は、新潮文庫版と、このハヤカワ演劇文庫版がある。
動画で、2007年の演出 蜷川幸雄、主演 小栗旬の「カリギュラ」を観て、DVDを購入する前に、
一度、紙に書かれた戯曲を読んでみたい、と思い発ち、『ムサシ』を観終わったと同時に読んだ。
アマゾンで注文した時には気づかなかったが、2007年「カリギュラ」の翻訳者である岩切正一郎さんの訳書だった。
動画で観たものと一部を除いて同じ台本、ということだ。
字で読むと、また何か感じが違ってくる。
読んだ上で、また舞台を見ると、違って見えることだろう。

後書きに、稽古の時の小栗さんとのやり取りについても書かれていた。
カリギュラが登場するシーン。何をつぶやいていたのか、と小栗さんに聞かれた、と。
それが訳者にもわからなかった、と。
カリギュラが、それから実行していく悪逆非道は、その形の定まらない「つぶやき」に形を与えるもの。
そう結論がはじき出された経緯が書かれていた。
舞台の面白さというのは、日常では「どうでもいいこと」と見逃されている個々の言葉や心情の微妙さに、徹底的にこだわるところからも生まれるようだ。
そんなことを痛感させるエピソードだと思った。

それと、内田樹さんの解説も、興味深く読ませていただいた。
人間存在にも人生にも、もともとの意味なんてない、と中学生の頃、カミュに教えられたんだと、以前ブログに書いた。
内田さんの考察に寄れば、カリギュラが人々に伝えたがっていることは、まさに、その「意味がない」という身もふたもない真実だということだ。
よかった、私は、カミュを誤読することだけは、なかったんだな。
たけど、「じゃあ自分はどう生きようか」という点では、意味があると思って生きるより良かったかどうかは、自信がない。
はぐれ者だし。
その事柄について、深く深く話し合える、メンターたる大人が身近にいたらどうだったろう、なんて想像してみる。
蜷川さんは、若い人たちのメンターとなって、あちこちの種子を発芽させてまわっておられるように見える。
その方法によってしか変わらない大きな潮流があると思うので、特に「カリギュラ」を経て、小栗さんがどう変化したか、突っ込んで話を聴いてみたいと思う。
小栗さんは「安全がいいわけではない」というカリギュラの言葉に感銘を受けたとのことだったけど、これなどは最近よく言われる「リスクをとる」という発想と繋がるところがあって、興味深い。

それで思うこと。
帝政ローマは、人口の八割を占める奴隷によって、自由市民たちが労働せず安楽に暮らす生活を実現した。
そして、余暇だけでできあがっている人生を手にすると、ほんの一握りの人間は人類を大きく進歩させる学問や芸術を達成するが、残りはすべて堕落する、ということを証明した。
それは、ローマをはじめ、繁栄を誇ったすべての大国を衰退に追いやるほどの力だった。
そういう特殊なフィールドの中で、カリギュラが人々に突きつけた不条理には、一体どんな意味があったんだろう……と考えること自体、意味のないことのようにも思える。
ただ、少なくともこのタイトロープの上にいる人々の中には、明らかに何かに覚醒した人が現れるようだ。
詩人のシピオン、解放奴隷のエリコン、理論家のケレア、慈愛溢れるセゾニア。
それぞれの言葉の深さは、何度も味わってみないことには、私にはまだ理解ができない。
特に、解説者の言う、ケレアについての考察には感銘を受けた。
ペストが人々を覚醒させる機能を果たすことについては認めるが、ペストそのものを許容はできない、という立場を取り、最後に疫病たるカリギュラを滅ぼす正義に立つ。
ケレアのたどった思考の道筋は、国家や国民に対する、負荷と安寧のバランスという難しい課題の答えに見える。
ああ、こういう風に考えればいいのか。膝を打った。これは使えるぞ、と。

それにしても、ケレアに一番感銘を受けることからも自明だ、
私は、一人ひとりが何を考えてその言葉を口にしているか想像する力が、おそらく乏しい。
そういう人間だということを、観劇の後に戯曲を読むたび再確認する。
人の言うことを真に受ける質だから、予想はしていたけど。
例えば、失踪したカリギュラが帰ってきて口にする言葉に対して、エリコンが「筋は通っています」と答える。
その気持ちが、紙に書かれたものからは、少なくとも私には伝わって来ないのに、軽くショックを受ける。
役者が表現すると伝わってくるのに!
そのショックは、物語の最後まで綿々と続く。
音楽を少し勉強し始めた人は、優れた演奏家の演奏を聴いた後に楽譜を見て、同様のショックを受けるだろう。

つまりは、カリギュラは、一体何を求めて、これだけの悪逆非道をやってのけたのか。
私は、最愛の妹を失った絶望から、手の込んだ後追い自殺をした、という解釈をしたかった。
それが、私にとって一番楽な考え方だからだ。
楽である以上、それは最も陳腐な発想である。
こうした、割り切れなさを感じる人間ドラマというものは、現実の事件も含めて、自分の中に形成された世界観・人間観をじわじわと変形させていくだろう。
何しろ、既存のそれらとは決定的に矛盾することが、普通に起こる世界なのだから。

こういうものにあまり頻繁に接するのは身がもたないけど、何か停滞したものを自分の中に感じたときには、また見たい。
舞台は、一年に二度は見たいものだ、と思った。