表現者>その2

横浜市のコロナは、そろそろ洒落にならない段階まで来たようです。個々人には引きこもることと、徹底的な感染対策以外にできることがないので、例によってできるだけ穏やかに過ごして免疫力を上げる工夫をしたいと思います。

さて、横浜に住んで18年になりますが、学生時代好きになった山崎ハコさんが横浜に住んでいると知り、また横浜を歌った曲も繰り返して聞いて、いつか住んでやろうと心に決めていたものです。願いが叶った上、思った以上に住み心地が良いので、ここに骨を埋めようかと思っています。

山崎ハコさんの「ヨコハマ」はすごいですよ。「雨に濡れただるま船」「誰かが河に石投げた、寂しい目をしてぽちゃり」なんて寂しく悲しい風景を歌い、ここに泣きながらやって来た時の心を歌い・・・。挙句に「この街が好きだから いようと決めたよ」ですよ。

まあ、明るく元気な若い女の子たちとは対極にいるタイプの人にしか刺さらない歌ですね。刺さりまくりました、若い日の私。

さらに、最近は横浜流星さんに軽微にはまっているので、横浜駅の「よこはま~よこはま~」というアナウンスに、ちょっとどきっととする病気にかかっています。

というわけで、歌やドラマや映画や本などの作品と表現者に生活が影響されるたちである、という自己申告はここまで。前振りです。

 

さて本題です。

少し前に、表現者の性質について熱くなって語ってしまいました。

我がアイドルのファンを20年以上やっている間に、それまで考えてもみなかったいろいろなことを考えるようになったせいです。

書きたいことは溢れるほどにあるのですが、悲しいかな芸能の業界とはまったく無縁なので、どうしてもわからないことの方が多く、憶測で何か書くと迷惑かけるような気がします。
ただ、身近に芸事にのめり込んでいる人間がいるため「表現すること」の何たるかは、第三者として語れます。

 さて、娘は高校の部活でダンスにのめり込むようになり、ダンス部でついたあだ名が「鏡大好きっ子」でした。全体練習の合間にいつも一人で黙々と鏡に向かって練習していたからだそうです。他の人たちがそれぞれのおしゃべりを楽しんでいるのに混ざらず一人でいつもそうしていたところ、ある日コーチに、おしゃべりしていた人たちがこっぴどく叱られたこともあって、あだ名にやや悪意が籠るよう にもなったけれど、構わず鏡の前での自主練を続けたとか。うんうん、小さい頃からそういう子だったよね。やると決めたらやるよね、好きな事限定だけど。

鏡を見ながらの練習というのは、自分のアクションと「見え方」の繋がりを脳に刷り込んでいく作業です。身体を使って表現するわけだから、ちょっと考えると当然のことです。でも、「鏡が大好き」という言い方は「ナルシスト」の隠喩でもあります。表現する人たちに対する偏見は、こういうところに端を発しているのかも知れません。
岡田さんがまだ俳優として始まったばかりの頃、鏡をよく見るだの、芝居でカットがかかるたびモニターにすっ飛んでいくだの記事にされて、脊髄反射で「ナルシスト」という心無いコメントがネットにたくさん書かれたことがありました。あんな真摯に仕事に取り組む子によくもそんな事が言えたもんだ、と当時はひどく腹を立て、言った人間全員潰してやろうかと思いました。でも、当の本人が、役ごとにどんどん進化していって、ついにこの人を揶揄すること自体ダサい、というレベルまで達してくれたおかげで、平穏な日々を迎えられました。ありがたいことです。

ともかく、自分の「見え方」について、どの職業にも増して知っていなくてはならないのが表現者。元々は美しい女優さんなのに、役のために醜く太ることも、老け込んで見えることも厭わない人もいるほどで・・・歯まで抜く人もいます・・・、一般的に自己愛のために美しくなろうとすることとはまったく違う回路なんだということは周知のものになって良いかと思います。自分を愛することや肯定感を得ること自体、私はむしろ良いことだと思いますが、違うものは違うわけで。

娘ですが、大学生になって、ダンススタジオに通うようになってついたあだ名が「ミスター・ストイック」でした。女の子にミスターって何?と思いましたが、反復練習をまったく苦にしないことで有名なボクサーの異名なのだそうです。反復練習に心が疲れない・・・うんうん、確かに子供の頃からそういう子だよね。好きな事限定だけど。

スタジオは、プロダンサーを目指している人を要請するレベルのところでもあったので、高校の時の鏡に加えて、映像として記録して自分のフォームを直していく、という作業が加わりました。映像を見て「ここがダメ、あれがダメ」とチェックして自主練して、スタジオで先生に見てもらって・・・それの繰り返し。これをノンストレスでやっているので、大したもんだと思いました。

ただ、ある日肉離れをやらかしたのをきっかけに、努力していることだけを手放しで褒めるのは危険だと悟って慎重になりました。表現は、結果がすべてなんだし。 

ふと思い出したのですが、「きみの瞳が問いかけている」の番宣で横浜さんがスタジオで空手の先生と会った時の事。先生、少年だった横浜さんが「楽しそうに努力していた」と証言されていましたね。

岡田さんも、ロケ先でずっとトレーニングしていることを共演者やスタッフがたくさん証言しています。「やりすぎ」だとも言われていますね(笑)。ノンストレス、もしくは大きすぎないストレスで努力できる人でなくては、到底続かないことでしょう。

努力と大きなストレスが対になっている、としか認識できないと、ひどく心が冷たい機械みたいな人だと誤解されてしまうかも知れません。だけど、もし頑張っているところがキラキラして見えたのであれば、それは人がそれぞれに好きになってのめり込んだりする物事のひとつとしてもっと自然に受け止められるのではないでしょうか。

ただ、表現者としての努力は、当然表現されたものに結実します。私は、その果実を分けてもらうことで、たくさんの幸せをもらっているので、むしろ自分の為にそういう人たちを大事にしたいと思うし、尊敬しているし、大好きなのです。

 

今日はここまで

ではでは