映画「ヘルドッグス」観てきました

昨日、映画「ヘルドッグス」を観てきました。

アクションに目が追いつかないのは、もう慣れっこだから、想定内でした。でも、これまでのアクションと比較して、やられる側の痛みがリアルで怖いのは想像を超えていました。そこに耽美的で退廃的な映像が被って。ラスボスまでの死闘の数々が、より残酷に感じられるのは、この映像美のせいです。監督が「セクシー」と何度かキーワードのように語ってらしたのは、このことなんですね。

ところで、「ヘルドッグス」と、映画「渇き。」の原作「果てしなき渇き」とは、原作者が同じとのことでしたが、共通点をいくつか発見しました。

どちらも闇堕ちした元警官が主人公であること。これだけ聞いてしまうと、格闘技や捜査術に長けたダークヒーローの単純なお話を想像してしまうのですが、どちらもそんな生やさしいものではありませんでした。堕ちるのをここまで表現するのは、どれだけの苦行でしょうか。

次に、「渇き。」は児童買春組織がらみの犯罪「プチエンジェル事件」を題材にとっています。反社が絡むと事件の全貌が警察にも掴みづらいのかな、と当時も感じましたが、物語も謎が深い感じです。「ヘルドッグス」も、発端になったスーパーマーケットの強盗殺人は、もしかして、1995年の「八王子スーパー強盗殺人事件」を元にしているのではないでしょうか。映画とはディテールがいくつも異なりますが、日本で本物の銃を用いての強盗の発端となった事件でした。つまり、前代未聞で誰にも予想できなかったものでした。前例がないので警戒レベルが低く、初動がワンテンポ遅れた、いう点で、安倍晋三元総理の銃撃事件と似ています。

殺害された被害者の内2人がアルバイトの女子高生だったという話や、手口の残酷さを知ると怒りがこみあげてきます。しかも、27年経っても未だに未解決事件のままです。

犯人は今頃、どこでどうしているのでしょう。様々な説が飛び交っているようです。必殺シリーズのような闇の殺し屋を望んでしまうのは、この理不尽さへの憤りが集積している表れだと思うのです。

世界が理不尽で残酷だと悟ってしまうと、誰よりも純粋だった主人公のような人ほど闇堕ちするのでしょうか。そんな感じはします。

話はまったく変わるのですが、八王子の事件当日は30年近く前だけあって、スーパーの売上が現金で500万以上あり、夜の閉店後事務所の金庫に店員がしまっていました。捕まるリスクをおかして強奪するのに、もしかしてその金額は充分に大きいかも知れません。バブル崩壊後の不景気の時でしたし。

社会的なキャッシュレスへの動きは、もしかして店舗で働く人たちの危険を減らしてくれるのではないでしょうか。今日、初めてそれに気がつきました。

普通に働いて暮らしていると、世の中には、理解できないほどの悪意を持って、罪を犯すのに何の抵抗も感じない人間が存在していることに気がつきません。それにいち早く気がついて防衛するよう警告してくれる存在は、ありがたいと思います。この物語の作者も、その1人だと思いました。そして、声に出さずとも、危険を減らす仕組みを粛々と作り続けている人たちにも、感謝します。

原作をさっそく読み始めました。来週末辺りまでには読み終えて、2度目行ってきます。

ではまた