『どろろ』

「見てから読むか、読んでから見るか」迷った末、今回は読んでから見ることにした。手塚治虫の名作「どろろ」。ずいぶん前からその存在は知ってはいたものの、何となくグロテスクな感じがきついような気がして敬遠していた作品だ。まあ、グロテスクは苦手だとか言いつつ、友達の家でさらにえぐい「きりひと讃歌」を一気読みしてしまうのだから、耐性がないわけではない。実際に「どろろ」を読んでみると、読んだ人たちが口々に名作だと言う訳がよくわかった。それは、重いテーマをじっくり切り込んでいく作品の質の高さがまずひとつ。それから、その作品の位置づけに、何かしら義憤めいたものを感じることがもうひとつ。中途半端なところで終わって、続きが読みたいのに読めない欲求不満に落とし入れられ、そこにはいろいろいきさつがあったことを知る。私にも義憤が伝染する。
まあ、作品の質と、商品としての成功とは必ずしも繋がらない、というのは、今まで多くの人が散々口にしてきた言葉だから、今さらくどくど言うのはやめとこう。

そんな風に原作のインプットを完了して、昨日映画を鑑賞。私は、きれいな人間と、きれいな風景が好きなので、その点ではすっかり満足した。まずはニュージーランドの広大な大地と海。天下取りとは、この土地の取り合いなのか、と感じた。その大地が死体でいっぱいの合戦後のシーン。そして、最後の青くて広い海。ゆったりと波が寄せては返している。誰のものでもない、誰のものにもならない海。とても雄弁だ。ただ、ニュージーランドは植物が日本とだいぶ違うので、かなり雰囲気が異なる。日本だと、もうちょっと湿気を感じる植物群と空気となるだろう。だからか、これは未来か過去かわからない、どこの国かわからない、架空のお話だということになっていた。
それから、汚い格好、あるいは僧服や尼僧服などの均一の格好をさせると、その人が美しいか、ただ雰囲気で美しくつくっていたかがわかってしまうけれど、主演の妻夫木さんと柴咲さんは、本物の美形だとつくづく思った。美形の人が身をやつしている姿に、見るものは勝手に壮絶な過去を憶測してしまう。見ているだけで物語を感じてしまう。どろろは女性だった、という落ちだけど、確かにこんなきれいな子がひとりで生きていくためには、女の子じゃ無理だったろう、とか。登場シーンの百鬼丸の「表情のない表情」は、若くて美しいのに、どれだけひどい体験をしたらそんなに擦り切れてしまうんだ、と思ったり。それが、だんだん人間らしさを取り戻して、最後はいい顔でどろろに微笑みかけるんだな。

それから、アクションは思い切りすかっとした。ワイヤーアクションは言うに及ばず。すごくシンプルなところでも、たとえば切りかかってきた相手の刀を、百鬼丸がひょいひょいと回して奪い取り、さくっとみね打ちにするシーンとか。とても楽しい。その百鬼丸だが、原作の百鬼丸よりらしかった。全身を木で作ったという原作と異なり、映画では死んだ子供たちの体から抽出した水に電気を通して形作った組織で、魔物にとられた体を補った。だから原作では百鬼丸は人々に異形の者だということが早くにあっさりばれるけれど、映画では普通の人間だ。だから、「赤錆山で両腕が刀の怪物を見た」という証言を町人にさせるのだな。これは、実写にする際の制約から来る変更には違いないのだが、逆にそれが百鬼丸の存在の悲しみを増している。魔物を退治して、体の一部が戻ってくる場面を見て初めて、百鬼丸が普通の人間ではないことを知る村人の恐怖が、とても切実なものに感じられた。助けられておきながら、石もて百鬼丸どろろを追い立てる村人を見ていると、「キャシャーン」を連想する。だから、わかってくれる人=どろろと二人でいることがとても大切なことなんだとも思う。いじめられっこだった人は、絶対にあの場面でぐっと来ると思う。

あと、我が子を魔神に捧げて天下を取ろうとした醍醐景光。泣く泣く我が子を川に流す母。自分は両親にとって兄の身代わりではないかと悩む弟 多宝丸、その中で、自分の恨みをどう処理していいかわからない、百鬼丸。家族の問題は普遍性が高いけれど、原作よりこのテーマが深くて、どろどろしたものまで感じられて、コミックとは別の作品として、良い、と思った。

どろろ2」は当然つくられるだろう。どろろの背中に描かれたものの秘密の話がまだ残っている。あのロマンを今回削ったのは、とても残念だったから。まだ倒していない魔物も、まだ半分残っている。からだをすべて取り返した百鬼丸どろろがどうなるか、それが知りたくもあり、知ってしまうのがもったいなくもある。