映画>パレード(ネタばれあり) そして余談・雑談

さてさて、ずいぶん時間が経ったけれど、初日は2月の20日。
その、初日に川崎のチネチッタまで行って見てきた。

原作を読まないでいた方が、最後の数カットの衝撃は大きかったろうか。
結末を知っていたから、それまで五人の若者たちに流れている時間が青春の一ページっぽいのは、製作者の「企み」と最初から見ていた。
もし、何も知らなかったら、私もまんまと騙されて、『今』という特殊な時代が生んだ、孤独な若者たちの青春群像の映画、という見方をしていて、最後でショックを受けたはず。

さてさて、登場人物の五人の誰かに共感したら、その人の心の闇が訪れる、という主旨のコピーが、予告に流れていた。
こういう言い方をしているところを見ると、この人物たちの奇妙な習慣は希少なもの、という製作者の発想があるのだろうか。
実際、こういうことが、どれだけの人間に「自分もそうだ」と受け止められるのか、私も推し量れる材料がない。
だけど、原作を読む限りでは、個々の主観の中では自然な行為であるように感じる。
うかうかと感情移入しそうになる。
それを思うと、確かにすごい小説ではある。
奇妙な行為をする奇妙な人物は、自分とはきっぱりと無関係だと思いたいのが人情だから。

自分なら誰に共感するだろう、と考えてみた。
考えるまでもないことだけど、未来だ。
私は、さすがにレイプシーンを編集したビデオは見ないけれど、子供の頃に、「黒い絵」を描いたことはある。
まだ小学生になったばかりの頃、絵が好きで、暇さえあればクレヨンで色とりどりの絵を描いていた。
ところが、それとは別に、その「黒い絵」のノートはあった。
時々、思い出したように一枚、一枚と描いていた。
引き出しの奥に厳重に隠しこんであったからには、子供心に人には見せてはいけないという知恵だけはあったらしい。
それは黒だけで描かれた絵で、裸の女性とか、あとグロいものがいろいろ。
今思うと、それは子供の目から見たセックスシーンだと思うのだが、不思議なことに何かを見た、という記憶がまったくない。
両親は仲が悪く、父親は家族に取り返しのつかない暴言を吐く人で、母親はむしゃくしゃする気持ちを子供への暴力で晴らす人だった。
でも、することだけはしていた、というのはずっと後になってから知った。
私の絵が、そういう中で描かれたのは、何か意味があるのだろうけど、自己分析は面倒だと思う。
ただ、セックスと男女の支配被支配とは関係がある、と気がついて、男性恐怖&嫌悪に磨きがかかった思春期は、あの絵を描いた子供が成長した当然の姿だと思う。
絵は、とても原始的な表現手段であり、自分に対して何ごとかをフィードバックする装置だ。
言葉は、たぶん、そういう手段としては、子供にはハードルが高すぎるのだ。
その証拠に思春期には絵はぷっつりと描かなくなり、代わりにおびただしい日記を書いた。
ほんと、表現者に必須なのは毒家族だというが、納得だ。
未来が自称イラストレーターなのは、両親の葛藤を目撃したトラウマとは無関係ではないのかな、と思った。
映画の中で、未来が自分の心の問題を、きれいに言葉でまとめていくので、観客は安心して成り行きを見守っている。
だけど、それは最後の数カットで恐ろしいほど裏切られる。

私も含めて、人間は、未知の人間が安心できる人物かどうかを、まず探ろうとする。
ここに出てくる人物に、「安心できる」要素を見つけようとする。
それは、最初、とても良好に進む。
奇妙な行動にも、「ああ、そういう過去があったんだね」と納得できる。
だけど、それは結局はうわべだけでしかないんじゃなかろうか。
直輝がなぜこうなのか、それはどうにも納得いかないことだ。
壊れているのはわかる。
だけど、どうして壊れたのか、それがどうしてもわからない。
この先どうなってしまうのかも、わからない。
わかるように見える他の人だって、結局なにか変だってことが、最後近くのシーンで決定的になる。
フルメタルジャケット」のラストシーンを以前引き合いに出したけど、そこに映っている人がすべて狂人であると悟る怖さ、という私の勘が的中した。
怖いよぉ。これって鏡に映る私の姿じゃないよね・・・・・・。

藤原さんは・・・・・・どうして、こうも壊れている人を演じるのが巧みなのだろう。
いや、それを悪く思っているのではなくて、奇妙に妬ましいのである。
カイジ」の、故郷の秩父での試写会での映像。
愛情あるご家族や友達に囲まれて、この暖かい街でのびのびと育まれて来られたのが、よくわかった。
なのに、どうして壊れている人間が理解できるの?
いや、理解できないのに、演じるだけはできる、というわけなの?
まさかね。・・・・・・演じるって、何なんだろう。

それで思い出した。
岡田くんのファンだった頃、彼が美貌だけをクローズアップしたドラマや映画にばかり出させられて、キャリアが途中で萎んでいく将来を危惧して、「犯罪者の役が見てみたい」とか、せっせとホームページに書いた。
共演してる俳優さんで同様のことを言ってくださる方もいたけれど、岡田くんのリアクションは、「まだへなちょこだからだめ」だった。
年齢とは関係ないんだよね。
藤原さんは、同じ15才で、壊れている人の役でデビューしたんだもんね。
それがすご過ぎて、藤原さんの代名詞にも一時期なってしまったわけだものね。
岡田くんができる「壊れ」は、へたれとか、ヤンキーとか、やっぱり素に遠いところで、それがまた見事だということはあるんだけど。

ところで、岡田くんのGrowing Reedに藤原さんが出演した回。聞き逃してしまった。
あとから知って、もう死にたい、と思うくらいがっかりした。
あちこちから情報は拾ってみたけれど。
でも、何かとても対照的なところがある二人ではある。
ふたりが40代になるまで、何としてでも健康に生き延びなきゃね。
見たいものがたくさんあるから。
「こんなの見たことない」というもの、いっぱい、ね。