天才論2~DVD>映画『カメレオン』

今年の夏は、仕事がそこそこ忙しく、この『カメレオン』、映画館では二回しか見ることができなかった。見終わって映画館を出るとすぐに「もう一度みたい」と思った映画。それがなぜこんなにもあっさりと短い公開期間で終わってしまったものやら。もうちょっと長くやってもらえたら、監督の言う「二回目と五回目が面白い」の五回目の方が体験できたのに。こんなことならもっと真剣に時間を作って見ておくんだった。……この手のぼやきはかっこ悪いとわかってても、どうにも止まらない。もう人生とっくに折り返し地点過ぎたから、やりたいことはためらわずに実行を、という教訓だな。……焦るわね。

さて、先々週末、予約していたDVDが届いていた。ふと数えてみたら公開初日から五ヶ月しか経っていない。それが嘘のようだ。体感としては一年以上たっぷり経った感じがする。実は、フォトリーディングの講習を受けてからこっち、時間の感覚が極端に狂ってきていて、何だか変な感じなわけだけど。早速見てみる。本編、コメンタリー、特典DVD、ひととおり。アクションは、何度みても疾走感あふれていて、スカッとする。

身毒丸 復活』の特典DVDで、藤原さんが「学園物じゃあるまいし」と語っていた、迷惑なメイキングのカメラって、この『カメレオン』のものだったようだ。藤原さんは、陰の気を発しているわけではないけれど、実にわかりやすく怒っていた。監督も。思い出すなあ、岡田くんの『フライ・ダディ・フライ』の時の、あのぎこちない空気を(笑)。ちょうど同じ感じだった。主演と脚本家は、さかんに「男祭り」を強調していたけど、何だか気の毒だった。もう時効だから言ってもいいだろう。岡田くんも、真剣さのない人には顔に出してわかりやすく疎んじる人だったけれど、藤原さんもその点では実に徹底しているようだ。その分、ヒロインの水川あさみさんが思い切りの良い演技をされる方で、救われたみたいだ。「自分を解放して」という表現だったけれど、それが具体的にどういうことをさすのかは演技に関してはまったく無知な私にはよくわからない。だけど、いいものはとことん「いい」と評価するところが藤原さんの、すぐれて魅力的なところだと思う。特に、こうやって真剣に仕事に取り組む女の子を評価してもらえるのは、我が事のように嬉しい。

そうそう、それからキスシーンのメイキングで、二人がお互いをいたわりあっているところが本当に微笑ましかった。どっちかが自己中になるとどうしても気まずい空気が流れるんだろうけれど、二人とも本当にさっぱりしてていい感じ。だから、監督が藤原さんを評して言う「良いも悪いも壊れている」(良くも悪くもだったかな)というのが、とても意外な気がして、もっと詳しく聞いてみたくなった。これは宿題だ。

さて、映画の内容については感想をいろいろ書くのは今回はちょっと控える。百聞は一見にしかず。「ともかく見て」とだけ。TUTAYAでは12倍の競争率のようで、大変だけど。

で、怒涛の天才論に再び突入する。

「天才」と聞いて、最近真っ先に思い出すのは、あるサル山での実験のこと。サルが通れない程度の細い透明プラスチックの筒の中に、餌を入れておく。サルたちはそれを取ろうとして、手が届かなくて悪戦苦闘する。誰かが棒を持ってきて取ろうとする。つまりここのサル山には棒を使う技術は存在しているわけだ。だけど、すべってうまくいかない。やがて、天才サルが大き目の石を手にやってきて、それを筒の中に勢いをつけてすべらせる。餌は石に押されて、向こう側の口から出てくる。めでたく餌をゲット。他のサルたちも、このやり方を真似る。かくして、群れに餌取りの新しい技術が生まれたのだった。こういうのを見ると、閉塞感が破られる思いがして、嬉しくなる。

しかし、この天才は、一体どのようにしてこの方法を思いついたのだろう。それまでまったく存在しなかったものを、どうやって発想するのだろう。何かが普通のサルとは違うことは確かだ。それと、どうやら真似るサルたちにも真似が上手なのと下手なのがいる。万が一、一様に真似が下手だったら、この天才の開発した技術は一頭限りの儚いものとして消えることであろう。天才も貴重だけど、真似上手も大切な存在だ。また、技術を改善する日本人みたいなのも(笑)いる。これも大切だ。これらの資質を条件付けているものは何だろう。好奇心は尽きない。天才の生み出すものが生かされるために、いろんなタイプの個体が存在する意味があるのだと、サル山というサンプルケースが示してくれる。

それともうひとつ。このサル山からは、人間たちの姿も見える。前から考えていたんだけど、サルたちはどうして高度な技術を持っている人間たちから、見よう見まねでもっと多くを学んで、人間そっくりにならないんだろう。……それは、サルの脳に、人間が持っている技術を習得できるキャパシティがないからだ。天才サルと言えども、その種固有の枠を大きくは超えられない。人間にだって、その枠はある。その枠のエッジに天才たちは次々と生まれては立つ。そしてエッジを少しずつ少しずつ押し広げていく。かくして、人類は360万年の進化の途中にいるというわけだ。

藤原さんは、実際にその称号にふさわしく、そのエッジを押し広げているのかどうか、舞台の場合だと、私自身があまりたくさん見ていないので比較するものがなくていまいちよくわからなかったけれど、映画で見ると、確かに「今までこんなの見たことがない」という感じが強くする。それは、人という存在のバラエティに過ぎないのか、はたまた、一段上ったところにある「何か」なのか。次を見たら、きっともっとはっきりするだろう。今、世界はたいへんだから、突破口が必要な時期にきていると思う。これだけメディアも発達してきている。表現者である意味ももっと広がっていくかも知れない。娘やその子供たちの世代を、なんとか明るい未来に届けて欲しいという私の願いは、けっこう切羽詰ったものだから、期待も厚かましいほどに大きいのである。

……何だか論点がぼやけた文だけど、今日はここまで。