戯曲『ムサシ』~井上ひさし ネタバレ注意

舞台『ムサシ』をぜひ見てみたいけれど、まだ見ていない、という方は、これから先はネタバレがあるのでご注意ください。
WOWOWで7月18日 12:00~に放送されることでもあるし、ネタバレなしの方がおそらく、より楽しめます。

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さてさて、井上ひさし脚本、蜷川幸雄演出、藤原竜也小栗旬鈴木杏出演、舞台『ムサシ』の戯曲が、早々と出版された。
今までの購入履歴によって当然のごとく、アマゾンから「おすすめ」が来たので、
本が出版された当日に購入して、翌日に読了した。
これを首を長くして待っていた。
開くと、時代劇特有の、日常ではあまり見ることのない風情のある漢字が散りばめられている。
大人になると食べ物の味覚が変わるけれど、本の味覚もどうやら変わるらしい。
耳に心地よく響いた古風な言葉が、目にもとても心地よい。

まだ、大阪の舞台で『ムサシ』を上演していた時だったので、ネタバレを避けて今まで待っていた。
千秋楽も無事終わったところで、きっと何か公式の情報があるだろう、と期待していたのだけど、
今まで待って何もないようなので、ここらで書くことにした、というわけなんである。

さて先日、反則すれすれである、と曖昧にして書いた。
反則すれすれとなれば、夢落ち、芝居落ち、オカルト落ちのどれかだ。
そして、『ムサシ』の場合は夢を除いたふたつだった。
登場人物の内、生きている人間は武蔵と小次郎だけで、後はすべて亡霊だった。
亡霊たちは、剣豪二人が斬り合いをするのを何とか阻止しようとして、芝居を打つ。
それが、観劇の最後の方になってわかった時、確かに心の中で「反則だ~!」とつい叫んでしまった。
だけど、とても不思議な感じだ。
生きている人間たちは、死んだ者の霊がいるとすれば、きっと生きている者の命を妬んで、それを削り取ろうとするに違いないと、漠然と思い込んでいる。
だからこそ、おどろおどろしい怪談があまた存在する。
しかし、『ムサシ』の亡霊たちは、自分たちの命がなくなって初めて、命の大切さを痛感して、それを生きている人間に伝えない内には成仏できないと言う。
ましてや、命を奪い合う果し合いなどもってのほか、と。
所詮は他人のことなのに、どうしてそこまで、と思ったけれど、
「蛸」のところを見直して、ふと思った。
他の生き物の命を奪って自分の命を繋ぐことしかできないのが、生物の宿命なのだから、
生命をなくして「仏」となった者たちは、奪う欲望だってきっとなくしたはずだ。
だから、命全体を、もっと俯瞰して見ているのかもしれない。
無意味なことのために死ぬな、と。

私は、武蔵が語る、素晴らしいライバルと戦う、死のエッジのぎりぎりのところにしかない、鮮やかな命の瞬間が欲しいという気持ちも、よくわかるのだ。
斬り合いそのものは理解できない。斬るのも斬られるのも嫌だ。
だけど、最もきらめく生の実感は、死のラインほどの緊迫を必要とするものだというのは、経験的にわかる。
武蔵の言っているのは、きっとそのことだろう、と思う。
言うならば、毎日を、そして生涯を、学園祭の前日状態で生き抜きたい、と。
亡霊たちは、生きることの素晴らしさを説くためにこんな手の込んだことをしているのだから、それも理解した上で、でも命を担保にしてまでやるな、と訴える。
何となく、平行線かなぁ、と思ったけど、武蔵も小次郎も、剣を納めるのである。

報復の連鎖と二人の剣豪の確執は関係ないのでは、と思いかけた。
でも、幼児だった頃をじっくり思い返すと、「負けると悔しい」という気持ちは、他者と関わるときの、原点とも言える感情だった。
でも、相手も負けると悔しいことでは同じだろう。
争うことそのものに意味を見出せないのなら、どこかでやめないと、それこそ命と時間という大切な資源の無駄遣いになる。
大人になるに従って、そう思うようになり、他者との適切な距離をはかるようになっていく。
人類の歴史も、どうやらその方向で一歩一歩進んでいくようだ。
最大の大国が、まだ戦争しているのがアレだけど、時間の問題だと思う。

そんなことを、例によってとりとめもなく考えさせられる、そんな本だった。