『ムサシ』感想~脚本家・演出家萌え篇

『ムサシ』観劇から一週間以上が経過。

私がこれまでに見たことがある蜷川さん演出の舞台には、復讐をテーマにした作品がいくつもある。
まず、一番最初に見た「エレクトラ」のメインテーマが復讐だ。それから「オレステス」も。
ハムレット」もそう言えばそうだ。
どれも、笑いの入る余地がない、深刻な復讐劇だった。
私は、自分で言うのも何だけど、その場では怒りや不快を表明しない反面、ひどく根に持つ質なので、復讐劇には感情移入しやすい。
それでも、ここまで陰惨なお話だと、その復讐が自分のものでないことに、ほっと安心してしまう。
「ムサシ」観劇の前に、インタビューで「報復の連鎖」というキーワードが出てきたので、自分の脳内でお話を膨らませていた。
深刻な話はコミカルにもっていくのが井上さん流だと伺っていたけれど、私の貧しい想像力では、どうしてもうまく描けなかった。
それが、「ああこうなったのか」という、すっきりした感じにはなったけれど……ちょっと反則すれすれのわざのような気がしないでもない。

復讐劇と言えば、私にとってもっとも思い出深いのは、是枝監督の「花よりもなほ」だ。
以前、それが上映される前に、監督が参考にされた小説をいくつか紹介されていた。
その中に、私が読んだことがあるものは二つあって、ひとつは山本周五郎著「ひとごろし」。
ふたつめが先日ここで書いた、井上ひさしさんの「不忠臣蔵」だった。
復讐の無意味さを説く話、復讐の連鎖を断ち切る話、という点で、映画のヒントとなったのだろう、と推測した。
個人的には、その小説にとてもユニークな面白さを感じていたから、映画の方も何か、同質の面白さを期待していた。
それが裏切られた、というのではなかったけれど、何かすっきりしないものは感じたのだった。
だって、あだ討ちの相手が少しも悪い人ではなかったし、あだ討ちをしようとしている側の身内の人間たちが、何かすれた感じがして、味方する気が起こらなかったから。
それに、大事なものを奪われても、こっちが弱ければ結局は泣き寝入り、というのは、現実だけでたくさんだ。
わざわざ映画で見せてもらうまでもない。
いけない、と思いつつも、そんな風に感じてしまった。
心がどこか荒んでたのかも知れない。

舞台「ムサシ」でも、報復はなされない。
小次郎が六年かけて願ってきた果し合いは、小次郎の中でどうやって片がついたのだろう。
人を斬る技術を磨いて、支配階級のトップに立った武士たちは、明治維新まで、ずっと自己の存在意義を求めて揺れていくことになるんだな、と思った。
人を斬ることにかけては天才。だけど、人を斬っちゃだめ。
想像するだけで切ない。
武蔵も小次郎も、ずいぶんと気の毒な存在だったのだな、と思う。
武士でなくったって、生涯かけて磨いたものが、存在価値をなくす、なんてことはたくさんある。
手工業がどんどん自動化された時の抗争の話などを読むと、そう思う。
今は、IT技術のせいで、同じようなことが起こっている。
つまりは、自己の存在意義を確立するためのに、すべては戦っている、と言えるのかも知れない。

話は戻って。
もし、復讐の物語が、復讐の成就という形でしかすかっとしたものにならないのだとしたら、実にそれを求める心理こそが、現実世界で復讐が鎖のように続いていくことの主たる理由だ。
まあ、私は競争はもともと好きではないので、日本一になるべく武者修行していた武蔵や小次郎のような剣士たちの報復合戦は、主観的には理解しづらい。
夫の大学の後輩で、大学空手でその名を全国に轟かせたという猛者がいるのだが、時折バイクに乗った怪しい連中が、学生を捕まえては「Nはどこにいる」と聞いてまわっていたとか、いないとか。
ストリートファイターっていうの? 馬鹿なやつらだ。
私は、彼の身が心配で「十分に気をつけてね」と言ったところ、「そうですね。うっかり大怪我をさせたり、殺したりしたら、僕の人生も終わっちゃいますもんね」だって。
自分が怪我をする可能性を微塵も考えないところが、真のつわものを見た、という感じだ。
また、その人が「あと○○キロ、筋肉をつけて、アメリカの※※と試合するのが夢なんです」と、うっとりするような目で言う。
ああ、そう。理解不能

小説の武蔵と小次郎や、他の武芸者のモチベーションも、結局はそれだ。
それは、私には、頭でしか理解できない事柄なのだ。
誰が一番とか、どうでもいいし。
舞台では、禅寺の檀家の女性二人が、必死で小次郎と武蔵野果し合いを阻止しようとする。
私は、こっちが主観的に理解できる。
目の前で暴力的なことが起こるのが、本気で嫌だ。
だけど、実際に愛するものを奪った相手がわかると復讐へと豹変してしまう。
この当たりも見につまされる。
実際、女性は男性の一割ほども殺人を犯さないそうで、しかも動機はほとんどすべて愛憎のもつれからだという。

それで、ふっと嫌なこと考えちゃったんだけど、戦地へ赴く兵隊たちの中には、未だ実際の戦闘の惨たらしさを知らないで、高揚した気持ちでいる者がたくさんいるのではないだろうか。
それは、すべての戦闘に言えること。
男性のことが主観的にわからないので、すべての兵士は国家の犠牲だと思い込んでいた。
それはひょっとして誤解だったかも知れない。
男性は、この手のイマジネーションが女性に比べて弱いというデータもあるし。
危機に対して事前に、心の中でそなえる仕組みが弱いから、つい危ないことをしちゃうのだとか。
まあ、女性と比較して体力あるから、危険の近くまで寄って冒険できるせいもあるのだろう。
あぁ。私の半生を振り返ったら、思い当たることだらけだー。

武蔵と試合して死んだ人たちだって、望んでしたことだ。
だけど、自分が死ぬことに対して、覚悟があったのかなかったのか。
こうやって死ぬことが「武士道」なの?
でも、時代は戦国から、長い徳川支配の時代へ。
生物として自然に逆らったベクトルだからこそ、武士の支配が説得力のあるものになっていったのかも知れない。

それはともかく、戦いが嫌だという主張が通らない事情もなんとなく読めてきた。
どこかで止めたいんだけど、どうやったら止まるのやら。
アメリカも、この先また何度も戦争するのかなぁ。

とりとめもなく、こんなことをずっと考えている。
また、何かの折に書くかも知れない。