DVD>舞台『オレステス』 主演 藤原竜也

最近、藤原竜也さんの古いインタビューがたくさん置いてあるサイトを見つけて拾い読みしていた。その中に、以前、蜷川さんがギリシャ悲劇で「ある役者」を起用しているのを見て、「どうして俺じゃないんだ」と嫉妬した、と発言しているのを見つけた。2006年の『オレステス』の頃のインタビューだ。「嫉妬した」という若者らしい率直な言葉に好感を持ちつつも、何か奇妙な感じがして、蜷川さんが演出したそれまでのギリシャ悲劇を調べてみた。過去、主要キャストとして出演した、藤原さんに近い年齢の俳優で、該当する人はたったひとりしかいない。2003年の『エレクトラ』にオレステス役で出演した岡田准一さんだ。私は当時、彼のファンだったので、これを飛躍のチャンスにして欲しい、と祈るような気持ちで見守っていた。だから、いろいろと思うところがある。岡田さんに嫉妬、というのは、決して役者としての力量に対するものではないだろう。映像ではどうか知らないが、少なくとも舞台俳優としての格の差は、素人の目からも明らかだ。いや、同世代のどの俳優だって、舞台で藤原さんにかなう人はいない。ましてや、その時、藤原さんは今では伝説にまでなった日本演劇史上最年少の『ハムレット』を控えていた。・・・ネットの動画で少しだけ見たけど、噂に違わずすごい。すごすぎる。・・・その上で嫉妬って? それは、蜷川さんとの関係の中での嫉妬、と解釈するのが自然だと思う。

それだけ資質に恵まれているのに、この上チャンスを全部独り占めにしなくたっていいじゃない…そう思いかけて、天才と呼ばれている人にとっても、この道が茨の道であることに変わりはないんだ、と思い至った。とても危うくて、儚くて、歩けば痛くて苦しい、そういう道だ。確かに、話をいろいろ聞いて想像するだけで、私には耐えられない、と強く思う。そう思うからこそ、あの頃は祈るような気持ちにもなり、祈るだけではなくて自分にできることは、と真剣に考えもした。外から滑稽に見えることは覚悟の上で。恋愛感情を抱いているわけでもない、私の存在すら知らない赤の他人の幸せをあんなに切実に願ったことは、それまで一度もない。たぶんもう二度とないだろう。だから、疎まれていると知った時のショックは、ちょっと破滅的ですらあった。それもそろそろ立ち直りつつある。何しろ、こうして書けているわけだから。

それはともかく、その『エレクトラ』だが、当時コロスを演じている人がブログで稽古日誌を公開しているのを見つけて読んだ。それによれば、ある日、蜷川さんの次の演出の『ハムレット』の出演者三人が、稽古中に見学に来た。その三人とは、藤原さんと、小栗旬さんと、あと一人。その三人が素敵なことをはしゃいだ感じで綴ってあったのは、とてもほほえましかった。ただ、続けて、「岡田くんはファンの人から見たらいいんだろうけど、あんまりね」のようなことが書いてあったので、愕然とした。私は、工事ごとにチームを組んで仕事をしているけれど、チームの中にいる間はメンバーの悪口を言わないようにしている。家族にも。本当に嫌なことは、本人に直接言うか、元締めを通して伝える。すべてはよりよい仕事のため。経験から学んだことだった。このコロスの人は、どう考えて、こんなコメントを公開の場で書いたのだろう。また、既に、稽古は終盤にさしかかっていて、通しの稽古を繰り返していた頃だから、そろそろキャスト同士の垣根が取れてきているはずなのに、この、うっすら悪意のこもった文章は・・・何があったのだろう。本気で心配した。そうは言いつつ、彼が一緒に仕事をしている女性の不興を買う理由は、ファンだったので、大体察しはついた。その比較の対象に使われてしまっている藤原さんに対して反感を持つほど私は若くはないけど、ある種の資質が、我がアイドルにはなく、藤原さんにはある、というのが悲しくはあった。

ちなみに、その『エレクトラ』を見たときの感動を詩に書いたもの。
詩>『舞台俳優』
この中の「心臓をわしづかみにする」という表現だが、今ではずいぶん耳にするようになったので、それを使って書いているのが軽薄っぽく感じて恥ずかしいのだけど、当時は表現としてあまり一般的でなかった、と、いちおう言い訳(汗)。ともかく、舞台は敷居が高くてなかなか入っていけないけれど、一度味わってしまうと病み付きになりそうだ。生身の役者が、ここまでの存在だということを、それまで知らなかった。

そんなこともあって、蜷川さんの秘蔵っ子である藤原さんのことはずっと気になってはいた。別に自分の贔屓のライバルとみなして、敵視していた、というのではない。ただ、何となく気になって。その上で、『カメレオン』ではまって、ネットで検索をかけたら、舞台はDVDにならないものだと思い込んでいたのが、なんと舞台の『オレステス』がDVDになっているではないか。喜び勇んで購入して見てみた。

……なんて長い前置きだろう(笑)。

確かに、これでは誰も藤原さんにかなわないだろう。後でメイキングの映像を見て、オレステスの衣装をつけてすたすた歩いているのを見て、「あれ?ちゃんとひとりで歩けるの?」と不思議に思ったくらい(笑)。普通の日本人みたいにしゃべってるし(笑)。あれが演技だと、見ている間は感じていなかったってことだ。思えば、大竹しのぶさんの時のエレクトラも、現実と演技の境目を軽く突破して、私の内側に侵食してくるような鬼気迫る演技だった。ものすごく感動したものの、テーマがテーマだけに、閉塞感もひどくなった。もし、私が人を殺してしまったら、未来がこれで絶たれた、私の人生は終わってしまった、と思うだろう。物語の終わりに開放感がないのは、主人公が死んでしまう筋のものによくあることだ。珍しくはないし、悪いことでもない。だけど、生きながら終わってしまう、この恐ろしさに比べれば、死はむしろ救済ですらある。想像力をそなえた人間であればこそ、他者のいのちを奪うとは、そういうことだと思い知った。『オレステス』は、まさにその閉塞感に主人公の二人ががっちりつかまっている状態からはじまる。彼らが殺したのは実の母親で、しかもそれは実の父親の敵討ちだったからだ。いったい、それはどんな気持ちなのだろう。母親が父親を殺したことによって、彼らに約束されていた明るい未来がすべて途絶えてしまった。しかも、その絶望は、敵討ちをしたことによって晴れるどころかますます闇を濃くしている。絶望を感じたことがないわけではないけれど、ここまでの体験はさすがにない。現実には、親殺し、子殺しの事件はいくつも報道されているわけなので、可能性はゼロではないけれど、自分の性格だったら、まあ大丈夫だろうと。『エレクトラ』の時、普通だったらないその状況を、まるで実際の体験のように味わってしまったから、あれだけ引きずったのだな、と悟った。自分の抱えている問題ともいろいろかぶって。これが舞台の威力だろうか。

オープニング。エレクトラが、自分たちがまさに裁かれようとしている境遇や、オレステスが伏せって時々狂気にとらわれて暴れることを嘆く、長いモノローグ。それによってわかること。ソフォクレスの『エレクトラ』よりも、ずっと母性の強いエレクトラ。そして、ずっと傷つきやすくナイーブなオレステス。やがて、オレステスが寝台から転がり落ちるシーンで、それまで死体のようだった人型のものが、かろうじてまだ生きていることがわかる。だけど、それは「かろうじて」だ。復讐を成し遂げるときには、あれほど頼もしく頼みの綱だったはずのオレステスがここまで衰弱して、いったいこの先、二人に未来はあるのか。親戚からも見放され、裁判で懸命に無実を主張する二人に、とうとう死罪の判決が下る。絶望のどん底で嘆く二人。・・・最初からここまでが、とても重苦しくて長い。見ていてとても辛い。『エレクトラ』の時から引きずっていた閉塞間がまた強化されてしまう。死に行く者同士のいたわり合いは、美しいけど、悲しすぎる。醜くても生き続けるほうがよっぽどましだ。
そう思い始めた時に、親友のピュラデスが言う「どうせ死ぬなら・・・」の提案の言葉。オレステスと同時に、思わず「お前、本当にいいやつだな」と言ってしまう。もとからロジカルシンキングをする人で、親しみを感じるなあ、とは思ったけれど、ロジックが生む着想がいつだって突破口になり得ることを、私としたことが忘れていた。それは私の武器なのに。そこからの流れがいきなり変わって、エレクトラは計略に長けた賢いエレクトラになり、オレステスは勇猛果敢なオレステスになる。そして、すべてを包み込むようなラスト。やっと閉塞感にピリオドが打たれて、すっきりした。舞台のよしあしについては、何もわからないので言わない。言えるのは、それによって、私が何を感じて、どう変化するか、だけだ。ともかく歩こう。それから、勉強しよう。今のところは、それくらい。

ところで、2004年に「竜」のお題で書いた詩が、藤原さんにあまりにぴったりだとふと思った。俳優をイメージした詩である上に、名前が一文字入っているので、ますますそう思う。
詩>『竜』
これは、生物と四字熟語とキーワードのみっつをくじでひいて、それを見て詩を書くという、落語の三題小話の形式で書いたものだ。竜は、私のイメージでは、どこまでも自由奔放で、人間がちまちまと築きあげた正邪善悪からも開放された存在なんである。「名は体をあらわす」の言葉を思い出した。