映画・本>『羊たちの沈黙』『ハンニバル』

本>「羊たちの沈黙」「ハンニバル」   2000.6.9

「蝿の王」でも言った通り、観る映画を選ぶときの基準に、好きな役者のもの、というのがある。夫は、狂人や犯罪者をエレガントに演じられる役者、私は、純粋な人間を美しく演じられる役者。私たちふたりの好きな俳優が同時にスクリーンに登場する映画というのは、それほど多くない。その少ない中のひとつで、我が家では年に一度は観る定番が「羊たちの沈黙」だ。アメリカのFBIで行われている「プロファイリング」という科学捜査の技術を日本に広く紹介するきっかけとなった作品でもある。

夫は、ハンニバル・レクター博士を演じたアンソニー・ホプキンスが好きである。「12モンキーズ」のブラッド・ピット、「バットマン」や「シャイニング」のジャック・ニコルソン、そしてアンソニー・ホプキンス、この3人が彼の世界ではベスト3らしい。どうして狂人役で主役をつとめられる役者が好きなのかは、はじめはわからなかったのだが、「狂人の口を通して語られる言葉」というのは、実に奥深い問題をはらんでいる。静かな日常から離れることを嫌う人間には、それが「でたらめ」に見え、逆に哲学的カタルシスを得る快感から離れられない人間には、なにかの「ヒント」に見える。しかし、どう見ても、レクター博士というのは、狂人という言葉から来る醜悪なイメージとは無縁の存在だ。もっとも常人でもないが。まったき平静と調和の中で、次々と人を殺す人間は常人ではないだろう。常人のメンタリティを持たない連続殺人犯なので精神科の病院刑務所に収容されているものの、彼が語る言葉には深みがあって、彼の感性も知性も、これもまた常人の手の届かない高みにあることを示している。

それで、ふと思い出した。わたなべまさこ作「聖ロザリンド」という古いコミックがあるが、殺人に一切の罪悪感を持たない、天使の顔をした悪魔のような少女の物語である。彼女が旅の途中で人を殺していく時に語る言葉は、子供の無邪気な本質論であり、それが読み手の恐怖をますます煽る。殺人に、心理的な重圧をまったく覚えない殺人者。たぶん、ミステリーのジャンルとして、サイコ・キラーが大きなシェアを持ち出したことの背景には、生命についてのイメージが急速に変化している世相があるのだろう、と思う。わたなべまさこという漫画家は、倫理とはまったく無縁の人間と、その対極の、自分自身の良心に厳しく則って生きる人間を、耽美的なまでの鮮明さで描くことについては、右に出るものがいない、と私は思っている。そのふたつのタイプの人間は、正規分布の両端である。まったく対照的でありながら、大衆とは異質の存在であるということにおいて似たもの同士である。だが・・・怪物は、自分が怪物であることを知っているが、天使は、自分が天使であることを知らない・・・。

さて、私は、「タクシー・ドライバー」の、12歳の娼婦役のときから、ジョディ・フォスターが好きなのだが、「告発の行方」をはじめ、社会的なメッセージ性の強い作品に積極的に出演するその姿勢に、清冽なまでの純粋さを感じて、ますます好きになって行ったのである。もうひとつ彼女が好きな理由は、熱烈に彼女が好きな人がいるのと同じくらい、非常に感情的な批判を多く受け続けている人だということだ。もっとも、私が「この人は本物だ」と確信する人間に、この手の批判を受けない、という人はひとりもいないが。

「羊たちの沈黙」のクラリススターリングは、私のイメージのジョディ・フォスターと重なる役だった。繊細で純粋で勇敢なクラリス。続編が描かれて、映画化される、と聞いたとき、小躍りして喜んだのはもちろんのこと、ジョディ・フォスターが再び出演することを露ほども疑わなかったものだ。ところが、「前作によってみんなが持っているクラリスのイメージが壊れる」という理由で出演を辞退し、彼女に承諾してもらうための脚本の書き換えも彼女を翻意させられなかったと聞いて、がっかりすると同時に、この小説自体に非常に興味をひかれた。先に、この続編である「ハンニバル」を読んで、夫は「確かに、クラリスジョディ・フォスターとはちょっと違うかも」と言うのだが、私は、前作映画でのジョディ・フォスターがあったからこそ、この物語が膨らんだのだと信じている。

さて、「ハンニバル」は、前作の終わりで、レクター博士が脱獄した時から11年の時が経っている。研修生だったクラリスも32歳、FBIでばりばりの捜査官である。ただ、前作でのレクター博士のアドバイスを受けて、連続女性殺人者「バファロゥ・ビル」を突きとめ射殺し、要人の娘を救い出した大手柄のせいで、逆に嫉妬を買い、不当な待遇に甘んじている。クラリスをずっと貶めてきたクレンドラーという上司は、最後、レクターの手にかかるのだが、最後にそのクレンドラーに向かって、クラリスが「私に不利な評定を書かれる度に、何かへまをやったんじゃないか、ボスは何もかもわかっているのではないか、と思ってた。だけど、あなたは何もわかっちゃいなかったんだわ」と言う。これだけではない。どうも、それ以前のクレンドラーとクラリスのやり取りにも、私自身、身に覚えがある。作者のトマス・ハリスの筆にかかると、クレンドラーは、出世するのに他人の足を引っ張り続けるという方法を取る人間であり、たまたまクラリスもその対象になっただけなのだが、そう受けとめられないのは、クラリス自身に、自己を他者に投影して推し量る悪癖があるからだ。彼女の直観力は強力な武器なのだが、前作の場合、犯人の行動原理を突きとめる際の邪魔になって、捜査が進まなかった。レクター博士は、クラリスを高みに引き上げたい、と望んでいる。

さてさて、「羊たちの沈黙」では、まだクラリスは若く、大衆の持つ闇を知らなかった。独房にいるレクター博士クラリスに対して放つ質問が、どういう意味合いを持つか、あまりわかっていないのだ。連続殺人というものが、精神的な異常を持つ犯人によって為されるものだという前提をもって臨んでいるので、物事の真実が眼の前にあっても見逃す。レクター博士は、なぜ、連続殺人犯がメディアに「バッファロー・ビル」と呼ばれているか、尋ねる。基本的に大衆というものは、自分の家族や友達や知り合いなどの身近な人間以外の者の苦しみを、彼女のように自分の苦しみとして感じ取ったりはしない。いや、できない。自分を安全圏において繰り広げられる猟奇的な殺人は、大衆にとって娯楽なのだという、残酷な事実。これを、まずクラリスは知らなくてはならない。そこで、クラリス精神分析をするレクター博士は、クラリスの原体験である、食肉のための殺される羊たちの悲鳴を突きとめる。羊たちの苦しみが彼女の脳に刷り込まれたわけだ。そして、それを彼女の原体験にしたのは、夜警をしていた彼女の父親が、強盗に射殺されるという、少女時代のつらい体験である。かくして彼女は、苦しんで殺されていく者に強く感情移入する性質を持ちながら、無力感に裏打ちされた鬱々した人間には育たなかった。彼女自身の強いこころによって、犠牲者たちの苦しみにせきたてられるようにして、犯罪者を叩き潰すタイプの人間に成長したわけだ。だが、返ってそのことによって、彼女は犯罪者が見えない人間だった。たとえば、検死の場に立ち会う大勢の保安官たちが、無残な女性の遺体を前に、明るい興奮状態であること。そして、そんな中、FBIの捜査官に、若く美しいクラリスがいることで、明らかに妄想をたくましくして、クラリスを居たたまれない気持ちにさせていること。ここまで感じ取れるほどに鋭い感覚を持ちながら、これが、この殺人とは無関係な要素ではない、ということに思い至らない。彼女の中に蓄えられた個々のデータは、まだまとまりを持たず、ばらばらだということなのだ。

そして、レクター博士と出会って、犯人の考えを追跡することが可能になった。「ハンニバル」でのクラリスは、犯人の女性に対して、ある種の敬意さえ覚えるほどにクールだった。自分が、「スタイル」を持たない人間に幻滅を覚えるタイプであり、相手がたとえ犯罪者でも、強烈な「スタイル」があることで共感を持つ者である事に薄々気がつき始めている。そして、出世や保身で汲々としているFBIの人間たちに対して、窮屈な思いを募らせている。4分の1ほど読んで、結末を予想して言ってみたら、夫に「どんぴしゃだ。」と言われた。やっぱりそうだった。彼は、出会ったばかりの頃の彼と私を、レクター博士クラリスになぞらえているふしがある。当時は、「あんなに優しかった涼子さんが、旦那に似ちゃったの?」と言われたこともあった。愚かな人間による愚かな質問だと思った。私が仮に優しい面が以前あったとしたら、それはクラリス同様、急き立てられるように守りたいものがあったからだ。そして、クラリス同様、守るべき相手と方法を間違えていたのに気がついて正しただけなのだ。

ところで、「ハンニバル」では、以前レクターによって、寝たきりの体にされたメイスン・ヴァージャーという富豪の食肉業者が、レクターを捉えて復讐しようと、罠を張り巡らせている。それを時折、返り討ちに合わせながら、レクターはメイスンと対決していく。その緊迫感が物語りの本流であった。レクター博士自身の原体験も、この途中で語られる。かつて、兵士によって幼い妹を食い殺されたことが、レクターの強いトラウマになっている。クラリスが、羊の悲鳴を父親の死と対にして持っているのと同様、レクターにとって妹の死と対になっているのは、同じ頃見た矢が刺さった小鹿の姿だ。クラリスが、「ごろつきども」を一掃するのにのめりこむのと同様の熱意で、レクターは美しい者たちを「食い物」にする者たちを逆に「食って」しまう、ということが、やっとわかる。すべては、正しく「報復」なのだと。そのひとつの典型が、このメイスン・ヴァージャーなのである。

ここで、メイスンが「食肉業者」であることは、たいへんな皮肉であるが、とても重要なポイントだと思う。彼らが、飼育している動物の命を奪うのは、彼ら自身の生活のためである。およそ動物というものは、すべて他の生命を奪っていきることが宿命付けられているのだから、人間だけがその理から離れることはない。だが、人間は、ただ食べるだけでなく、それを料理して、様式美と化したマナーによって食べることによって、自らを、ただ生きるためだけに食べる存在から切り離してきた。そのため、直にそれを殺す立場の人間というのは、古来たいへんな差別をされてきた。ただし、その差別というのは、彼らの富とワンセットなのである。このメイスンという人間は、その食肉業者の業がたましいの奥深くにまで及び、すべての他者が自分の利益に供するための「たべもの」に見える者であり、彼自身は、自分を神に選ばれたものと考えている。レクターは、こうした人間たちの天敵なのであるが、大衆には逆に見える、というところが、興味深い。