DVD>舞台『身毒丸』

ロミオとジュリエット』について、尻切れトンボの感想を書いてしまった。
この若々しく、初々しい二人の恋の物語を見ていて、思った。
人間は、その年であればこその感情、ものの感じ方・考え方などをする部分が大きいと思う。その人の個別の性格と、どっちがシェアが大きいかというと、けっこういい勝負ではないかと。だから、役者の実年齢が役の年齢とかけ離れているより、できるだけ近いほうが、生き生きとしたものになるだろう、と素人考えで思う。若い役には、若い役者を……だけど、役者もひとつの技術である以上、ベテランより若い人の方が未熟なのは、他の職業と変わりない。若い人には難しい芝居はさせられない、ということになれば、芝居にはおのずから限界というものがあることになる。だけど若さはいつだって魅力であり、希望だ。表現の情熱をかきたてられる永遠のテーマだ。若くない私にはそれが痛いほどわかる。置き去りにしてきた「あのとき」の意味は、ずっと後になってわかるから。つまり、描きたい、だけど描くのが難しい。演劇界が、若い天才を希求する意味が、やっと理解できたように思う。演劇界の人たちが、藤原さんを宝物のように大事に思う気持ちも。その恩恵を今受けている私には、ただただありがたいことだと思っている。藤原さんがそんな風に生まれたことも、こうやって幸運にも若くして見出されたことも、ここまで来たことも。

というわけで、ウィキペディアで、『藤原竜也』をひいて見てみた。1997年の『身毒丸』から11年のキャリア。それを自分で年表に起こしてみた。……すみません。こうやってグラフや表にするのは性分なので、特別なことではないのです……2005年の『天保十二年のシェークスピア』シアターコクーンで見るまでの8年間、たった一回も藤原さんの芝居を見たことがないのに気がついた。『ボーダー』のラストあたりを何かの拍子にちらっと見た記憶があるのだけど、定かではない。バラエティもほとんど見たことない。名前は何度も聞いたことがあるのに。もともとテレビをほとんど見ない、映画はよく見る、というライフスタイルなので、映画によく出る人は割りと見ているほうなんだけど……と思ったら、映画はそんなに多くないのがわかった。大ヒット作『バトルロワイヤル』に主演してはいる。だだ、それを知ったのは、『デス・ノート』を見た後だ。あれはねぇ……子供同士で生き残りを賭けた殺し合いをするなんて、一生見るもんか、と公開当時に心に誓っちゃったのだな。他の映画もアンテナに引っかからなかった。人生、何がきっかけになるか予測がつかないものだ。

その11年間を、目下可能な限りのスピードで埋めているところだ。手に入る限りの映像を日々見ている。やっぱり舞台はどれもこれも素晴らしい。ただ、『ハムレット』や『近代能楽集』など、いいもので
見られないものもたくさんある。藤原さんの舞台がこんなに素晴らしいなんて知らなきゃ、この切なさだって知らないで済んだのに。ただ、幸せなことにファンの方にとって、たぶん一番大切な舞台と言える『身毒丸』は、2002年の『ファイナル』と、2008年の『復活』が両方ともDVD化されている。両方購入の上、拝見。

これ、面白い。聞いてすぐに意味がわからない言葉の数々も、わけもなく面白い。筋を全部理解したり、世界観が完全に把握できたりしない内に、ただ無性に面白さを感じる。子供みたいだ。理解するより前に世界を受け止めて、理屈抜きに楽しいと感じられるのは子供の特権だ。だが、大人だってその力がいくらかは残っている。そう言えば、わらべ歌や、カルタ遊びや、縁日の風景など、童心を誘うものがいくつも出てくる。思い出した。20代の頃に、『善悪の彼岸』を読んだとき、「難解で、100%理解できるわけではないのに、なぜだか面白くてたまらない」という、初めての感覚に襲われた。あれから、いろいろ読んで、近い気持ちになったものはいくつもあるけれど、あんなに鮮やかなのはなかなかない。だから、久々にその感覚に浸ることが出来て、とても幸せである。つまりは、役者の表情動作、台詞、舞台の細部、などの物語要素ひとつひとつに、たくさんの意味が織り込まれていて、なおかつ、観客である私自身も巻き込んでの再構築を迫るパワーを持っている、ということだ。

物語世界は、まるで、夢の中のようだ。現実感がないほど美しい少年しんとく丸。「ずっと昔にこんな人がいたかも知れない」と思わせる美貌だ。全体にレトロな雰囲気もあって、夏目漱石の『夢十夜』を連想した。お母さんを買う、というところがそもそも変だ。まあ、社会システムとしての実態では、女性は買われる身の上だったわけだけど。そんな変なものがたくさん、登場人物に何の疑問ももたれず、当たり前に存在している。これが夢だとしたら、一体誰が見ている夢なのだろう。しんとく? 撫子? 両方が同時に見ている夢? 撫子という登場人物に投影している私が見ている夢?  この物語についてなら、いくらでも何か書けそうだ。底が闇になって見えなくなるほど深い物語だと思う。

一番好きな台詞。「母さん、もう一度僕を妊娠してください!」というのは、一瞬体に電気が走ったかと思うほど、衝撃的な台詞だった。
女性が子供を妊娠して出産するのには、いのちの再生の意味がある。人間の意識は個人個人で分かれていて別々だから、再生と言ったって、詩的な意味に過ぎない。でも、いや、だからこそ、それは絶対的な「再生」なんである。

個人的な話だが、21歳で父親をなくした時に、妹が「今度生まれ替わったら、お父さんともう一度親子になりたいね」と言ったもんだった。「うん、そうだね」と答えたものの、妹とは違うことを考えていた。確かに親子になりたいけど、あの人の娘はもういい。私は、あの人の母親になりたい。まだ子供のあの人を抱きしめて、言ってあげたい言葉がたくさんある。自分を律してばかりいる強い子だからこそ、うんと優しくして、わがままもいっぱい聞いてあげたい。その子の強さをほめてもあげたい。そして、もしその子がやりたいことがあると言い出したら、命に換えてもやらせてあげたい。……もちろん、生まれ替わりなど信じていないし、タイムマシンもない。それでも、もし子供を産むチャンスがあったら、男の子と女の子の両方産もうと企んでいた。女の子には私のリターンマッチを。そして、男の子には父親のリターンマッチを。それにはまず経済力をつけなくては・・・。普通にこんなことを考えていたけれど、自分の父親にそういう感じ方をするのは、かなりおかしいかも知れない。でも、これこそが「再生」への執念というやつだ。
残念ながら、一人産むのが精一杯だったけど、「言ってあげたかった言葉」のほとんどすべてはネットで書けたので、思い残すことはない。

そんなわけで、子供を産むことに執着する撫子に共感する。子供の爪が入っているという小箱。夢が入っている、だけど開けてしまったら、夢は消える。……そんなところが、何かぞわぞわする。世の中を見渡せば、子供を産むことは必ずしも幸せを保証してくれないことがわかる。親を辛い目に合わせる子も、破滅させる子も、たくさんいる。なのに、まだ見ぬわが子は、いつだって天使のようにきらきらと輝いているものなのだ。開けない限り、夢は夢のままで続く。だけど、しんとくの目の中で、自分は年老いてゆく。だから、しんとくの目を潰そう……誤解されるのは嫌だけど、この気持ちも私には自分のものとして理解できる。誰かの目の中で女だってことは、まだ子供を産める可能性が残されていることの証だと思う。そしてやがてタイムオーバーとなる。夢が夢のまま、死んでしまう。それが怖い。……ここまで来て、撫子が義理の息子を一人の男性として見ていることに気がつく。撫子は、しんとくに母と呼ばれたがってたはずなのに、これは何だろう。しんとくも、亡き母以外を母とは呼べないと突っ張っていたはずなのに、最後、恋人同士になった時に、はじめて「お母さん」と呼ぶ、これは何だろう。何か、倒錯した感じもするし、しっくり来る感じもある。誰かを異性として好きだというのは、もっと何か生理的な、説明しがたい引力みたいなものなんだ。自分の親や、自分の子供が生理的に好きなように。また、生理的に憎しみを抱くように。

だいたい母と女はいっぺんには両立しないのが普通だと思うけど、女を通過しないと母にはなれない、というところで、こんな物語が生まれてくるのだなあ、と思う。またしても尻切れトンボだけど、今日はこの当たりで。