『ドリームガールズ』

個人的な事情でいえば、R&Bは大好きである。二十代の後半から三十代まで、一番聴いた音楽だ。そんなわけで、モータウンの往年の名曲ばかり集めたCDも持っているし、「モータウン25th」をLDで持っている。マイケル・ジャクソンが「ビリー・ジーン」を歌い踊る、伝説の舞台だ。『ドリームガールズ』のモデルとなったダイアナ・ロスシュープリームスももちろん、CDで何度も聴いた。そんな、私の一番体力気力が充実していた頃に慣れ親しんだ音楽の数々に、ずっと鳥肌をたてっぱなしの二時間だった。もちろん、舞台のミュージカルの映画化なので、音楽自体は、オリジナルのスタイルを完璧にコピーしてはいるもののまったく新しい創作だ。神業というべきか、「懐かしいけど、何だかちょっと違う」という、不思議な世界がつくりあげられている。音楽を聴いていると、時々「これはあの歌がモデルだな」と、元ネタがわかって楽しい。私にこの映画を一番楽しめる条件が揃っていたことを感謝する。だけど、そんな知識などなくても、歌で圧倒されることは保証する。黒人の歌唱力、リズム感を見ていると、うらやましくてならない。

ところで、あの頃はマイケル・ジャクソンにはまっていたせいで、関連する本もずいぶん読んだ。「黒人解放史」なんてのまで含めて。アメリカにおけるブラック・ミュージックのシーンには、黒人解放の歴史とは切っても切り離せないものがある。公民権運動の革命歌として位置づけられているビリー・ホリディの名曲「奇妙な果実」は、白人によってリンチにあった黒人の死体が木から吊るされている様子を歌ったものだ。それは、彼女のミュージシャンだった父親が興行の途中、急病にかかって、黒人だからという理由で住人に見殺しにされてなくなった経験を踏まえているとか。ちなみに、この曲のヒットによって、ビリー・ホリディは黒人として始めてTIMEの表紙となった。他人の表現の中の重い過去を受け止めるのに、「娯楽」という言葉は軽すぎる。映画の中では、セールスの成功しか考えないカーティスは、黒人だからという理由で音楽市場からも締め出されている、差別的な現実を引っ繰り返すことを最初の目的としていた。その戦略として、売れる歌を作るために抑圧された黒人としての表現は極力排除していく。すべては成功してから。みんなファミリーだから。……だけど、その挙句、恋人を乗り換え、恩人を裏切り、自分たちがされた「ぱくり」を、成功してから他に対してやってしまう。この辺りの「虐げられた者の成功と堕落」はお約束だ。モータウンの成功と衰退も、こんなもんだったのだろうか。

それぞれの登場人物にはモデルがいるようだが、もちろんザ・ドリームズはシュープリームスがモデルだし、ビヨンセ演じる歌姫ディーナはダイアナ・ロスがモデルに違いない。ジミーは、マービン・ゲイかな(よくわからない)。ジャクソン・ファイブのそっくりさんが笑える。そんなわけで、デジャビュを思わせる映像や音楽がたくさん出てくる。衣装・髪型・化粧・舞台装置・ダンスの振り付け、etc。豪華で楽しい。彼女たちを売り出すためのリードボーカルの交代劇も、よく知られたことだ。もちろん、締め出された者の苦しさなんて、物語にでもしてもらわなきゃなかなか理解できない。ディーナはどう見ても、リードのエフィの圧倒的な歌唱力には及ばない。実際、ダイアナ・ロスも美貌ではあるが、若い頃はシンガーとしては線が細い声をしている。一方エフィはほんの少し歌いだしただけで、人が聞き入ってしまわずにはいられないソウルシンガーだ。この人の歌は、ぜひ最高の音響環境の映画館でこそ聴いてほしい。歌の世界には、アメリカにあっても「興行」と「アート」の間に埋められない断絶があるようだ。

さて、主人公たちはばらばらになっていくが、それから後の確固たる地位を築いたブラック・ミュージックの快進撃が続くのを、今の私たちは当たり前に目にしている。それは、黒人の自立と同期している。表現は、それをする者も、それを受け取る者も変える。見終わってから、そんなことを思った。