『ゲド戦記』しめくくり

映画の上映もとっくに終わって、ちまたでの評価も一段落した頃なので、書きたいことがある。
まったく、ネットだけではなく新聞その他のメディアにまでいろいろ書かれて、暴風雨のような酷評であった。新人監督の作品としては異常な事態だったと思う。つまりは、少なくとも、見た人を落ち着かなくさせるインパクトがある作品である、ということ。一番悪いのは、誰からも何の感想も持たれない事態だと思う。
個人的には、監督が出版した詩画集の中の『別の人』という詩にやられて、かなりどきどきして見に行った。私自身が今風に言うところの「ユニークフェイス」なので、テルーという登場人物に強い関心があったのだ。特異な体験を経た人物のメンタリティというのは、演劇での見せ場の山だと思う。表現する側が体験していない事柄に、体験者の私が特にリアリティを感じることができたら、それで未来を占えると思った。それを『別の人』という詩に結晶させられた監督なら、映画監督としてのキャリアが皆無でも、絶対何か発見できる映画になっているはず。そして、『ゲド戦記』の訳者の方が、監督を一目見て評価したのが、とても納得いったのだった。
ちゃんと説明しとかないと、また「面食いだから」とか言われそうだ(笑)。

ところで、原作者のル・グウィン女史が自身のブログで、映画についてのネガティブな評価を書いた。私は、原作を読んだ後だったので、どうしてもその内容が気になって気になって仕方がなかった。
ゲド戦記』とは、一言で言うと、17歳の「選ばれし者」たちの物語である。一巻ではゲド、二巻ではテナー、三巻ではアレン、最後にテルー。それぞれの特異な才能を持つ者たちの子供と大人の狭間を軸にして物語は進む。そして全体は、アースシーという世界が、かつての栄光ある時代を取り戻す、癒しの物語となっている。主人公たちは「ドラゴンクエスト」のキャラクターのようだ。
ある人間が、他の者にはない才能を持って生まれてくるのは偶然だ。だが、せっかく持って生まれても、自分の才能に溺れたり、過小評価したり、それに気がつかなかったり・・・。それが、大人の入り口で彼らの運命は決定付けられる。試練という形で。私などは、アチュアンの大巫女だったテナーが、ゲドに連れられて墓所から逃げる時に、何度も気持ちが逆戻りしてためらうところに、大いに共感した。自由になりたい、だけど自由は怖い。揺れる少女の気持ちを、こんなに細やかに鮮やかに描き出すル・グィン女史に敬意をおぼえた。そして、映画の冒頭に出てくる、アレンが父親を刺すシーンは、テナーが逃亡の途中で、彼女を助けようとした守役ホルスを、無限の谷に突き落としてしまうシーンの翻案だと直観したのだけど……。あの殺人だって、理由はなかった。テナーは、どうしてこんなことをしてしまったのか、と嘆くのだが、それはすぐさま自由の喜びで押しやられてしまう……ここまで書いているのに、作者がアレンの暴力に理由がないことにこだわるのが私にはよく理解できなかった。

極論かも知れないけど……人が人を殺すのに、いや、すべての行動に、過不足なく説明し得る『理由』なんて、そもそもあるんだろうか。それは、物事が起こった時に、後知恵で「発見」もしくは「発明」されるものなんじゃないだろうか。
「理由」という言葉をあまりにたくさんあちこちで見つけたせいで、とびきり嫌なことを思い出してしまった。子供の時の記憶。母親が幼い私を叱っている。「やったからには理由があるでしょ? 理由なく、するはずはないでしょ? 理由をおっしゃい」とわめいている。「人のすることにはすべて理由がある」……そう言われても、幼児にはどうしてもその「理由」がわからない。自分のことなのに、遠い世界のことのようだ。幼児は、「理由」を「発明」する。その幼児は、本の形をしたものすべてに異常に興味を持つ子供で、そこから得た知識の断片で、「理由」を必死に構築する。すると母親は、「嘘をついた」と激怒して暴力をふるうのであった。こんなこと、何度繰り返されたろう。今思い出しても理不尽だと感じる。もちろん、幼児の行動に、本人に過不足なく説明できるような「理由」なんてないだろう。だが、明らかに1960年代、つまり『ゲド戦記』が書かれた頃の日本では、その「理由」がいついかなる場合にも存在する、という考え方が主流だった。アメリカの、ル・グィンを取り巻く環境はどうだったのだろうか。
アレンの行動を過不足なく説明し得る「理由」はたぶん、ない。今の時代のいらいらした若者たちにも理由がないのと同じだ。だけど、「状況証拠」のように、その「理由」に代わるピースはたくさん存在する。映画はそれを説明できていたか? 私は、できていた、と感じた。だから納得した。もちろん、納得はするけど、その罪が許されるかどうかはまったく別の話だ。アレンは、人間がいつか必ず死ぬことに絶望できる、そういう才能の持ち主だった。私は、それを才能だと思う。だから、ゲドと一緒に世界を救いに黄泉まで行くことができた。そんな風に思う。だから、今の若者たちを憂うだけじゃなくて、みんな通ってきた道なんだから、もうちょっと大らかに見守りましょう、という話なんでないか、と。うーん、深読みしすぎかな。
というわけで、『ゲド戦記』については、これで締めくくる。原作は、魅力的な世界観だとは思うけれど、『はてしない物語』ほどのカルチャーショックがなかったのは、ちょっと残念だ。