『スキャナー・ダークリー』つづき

スキャナー・ダークリー』を見ていて、ちょっと書き足したくなったこと。
フィリップ・K・ディックはSF作家として、人とまったく違う認識世界に住んでいる主人公を数多く創造してきた。それが惑星やタイムマシンや人工夢などの、絶対にあり得ないSF仕立てであるうちは、「荒唐無稽な馬鹿げたお話」で軽く済ませられた。だが、人類の悪しき発明の中でも核兵器と双璧の、麻薬を使えばそんなことは現実にだって簡単に起こせる。何倍も希釈したLSDで行った人体実験の被験者の記録を読んだことがあるが、幻覚はほとんど現実と区別できないほど鮮明だったそうだ。たかが少量の薬物ごときで、人間の脳って……。
だから、ディック的悪夢の世界は、現実に誰にでも起こりうることだった。映画でやっとそれに気がついた。夢の中にいるときに、それが夢だと気が付くことがなかなかできないように、麻薬によって幻覚を見ている者に、それが幻覚であることを自覚させることはできない。だから、麻薬中毒者の主観の物語は、悪夢が闇を背負ってこっち側にやってきたような、嫌な感じのお話になってしまう。脳の危うさと向き合うのは、自己の脆さと向き合うことと同じだ。怖くて、最後にとても物悲しい。

それとちょっと似たお話。
以前、私の聴覚は平均より高周波側にずれていていて、ネズミよけの超音波が聞こえてつらい思いをする、と書いたことがある。ところが、最近、高周波を発する実験的なサイトを見つけてボタンをクリックしたところ、何も聞こえなかった。さては、ただのいたずらで何も発していないのかと思いきや、部屋に入ってきた娘が、「何? すごい音してる」と言う。思えばこの子が中学生だった5年前、市営のプールに行く途中の家が高周波を流していて耐えられないので、家の手前で何度も引き返して遠回りをしたのだった。あの時点では私も聞こえていたわけだけど、この5年の間で聴覚がほどよく老化したらしい。やれやれ。でも、私の聞こえない音に顔をしかめている娘を見ていると、妙な気持ちになってくる。こういう状況にならなければ、私に聞こえない「音」が存在していることも気がつかない。また「本当に」娘に聞こえているか、こっちには主観的には知りようがない。霊視などのオカルトをどうしても連想してしまうのだった。もっとも、高周波の方は科学的に確認する方法がある。
主観は、どんなに愛し合っている者たちの間であっても、絶対的に交換が不可能なんだ、と改めて悟った。こちらもまた、物悲しい。

ディックの恐ろしいところは、そこに「監視している自分」と「監視されている自分」の両方を持ち込んで、主客をシャッフルしたところだ。この当たりのディック的悪魔性は、見てもらわないと、これ以上は説明できない。はまれる人とはまれない人に分かれるのは、たぶんこの性質のせいだと思う。

「物語」における「主客」というテーマについて、以前、まとまった文を書いていたので引用したい。ホームページに書いた、ドラマ『タイガー&ドラゴン』の感想文から。

「主役」というのは、どういう人だろう。人間というのは、「思っている自分」と「見られている自分」がいて、それは別々だ。その人が「感じている」「思っている」ことは基本的にその人自身にしか正確にはわからない。しかし、その人が例えばどんな表情をしているか、などは、本人「だけ」が知らない。(中略)タイトルロールがどうこう、という問題もあるのだろうけど、「主役」というのは一人、あるいは二人いる。現代文学の流れとして、視点を複数の人間に分散して書く、ということから、ひとりに絞る方向に落ち着きつつあるから、という事情がひとつ。いわゆる「神様視点」が流行らなくなり、物語は、ひとりの人の主観を通して描かれるようになった。となると、物語を活き活きと描くためには、「見ている人」と「見られている人」が必要になるわけだ。