映画「アキラとあきら」3回目鑑賞

先週2回目の鑑賞を終えた後、テレビドラマ版の「アキラとあきら」を配信で全部見ました。企業危機の解決法が原作とちょっと違いました。でも、映画で省いた人間関係が、ほとんど盛り込まれていました。しかも、とても丁寧に。これは良かったです。長尺のドラマならでは。

そして昨日は、3回目の映画鑑賞に行って来ました。ドラマからの映画鑑賞のせいでしょうか。ひとりひとりの気持ちに初回2回目に増して、ものすごく感情移入しました。私、この映画好きです。

見終わった途端に、家族ともっともっと仲良くしなくちゃ、なんて気持ちがわいてきて、駅ビルのデパ地下でいいお肉を買いました。夕食のしゃぶしゃぶはお値段に比例したさすがの美味しさで、話も弾みました。

その上で映画の感想として骨肉の争いについて書くのも気が引けるのですが、うちがわちゃわちゃと仲良しなのは、生家がそうでなかったことに対するリベンジの結果なのです。娘のことが大好きなのは自然な感情なのですが、生家のあり方を完全に反面教師として意識してやってきました。

こうやって物語を眺めると、子どもを産み育てることが、家や家業の存続と強く結びついている家庭の軋みは、破滅的な感じがします。いわゆる親ガチャの当たりに相当する層です。家庭は裕福、父親は聡明で有能、母親は上品で美しい、親戚もハイソサエティ。こんな絵に描いたような人たちのわだかまりなんて、外からは窺い知ることもできません。同族経営で家族や親戚同士仲のいい所って、ないのでしょうか。

物語の階堂彬や父親の一磨氏は、生来優れている人の常として、弟たちの劣等感や苦しみを自分のこととして理解することはできないのでしょう。うんうん、できる人って時々こんな感じでナチュラルに無神経ですよね。でも、弟たちにしても、長兄の、生まれた瞬間から宿命を負わされている上、兄弟の剥き出しの敵意をぶつけられる気持ちを理解できないのだから、お互い様というところでしょう。

物語の争う兄弟たちは、それでも男の子ばかりの上、長男が最も優秀なので、男女・長幼の序を重んじる伝統的な日本社会の中での摩擦は少ない方でしょう。これが、一番優秀なのが次男三男、あるいは女の子だったりすると、その悲惨さは大変なものです。兄弟姉妹を残酷に虐める子、他の子以上の高待遇を強く要求する子、「弟妹より上に」というモチベーションでの努力が実らずに壊れていく子。何人も知ってます。

思えば旧約聖書では、人類最初の殺人は兄弟殺しでした。動機は、弟が自分より神に祝福されたことへの嫉妬。これは、この種の嫉妬が人類普遍の根深い感情であることを表していると思います。

武家社会での兄弟の争いと言えば、源頼朝義経織田信長と信行、徳川家光と忠長辺りが有名です。殺害に至ったこれらほどではないにしろ、家督争いなどは他にも数えきれないほどあったでしょう。

これが日本型の企業の中で、経営や存続に関わるほどのトラブルの根となっているというのが、物語の骨子です。あくまで論理的に話を進めようとしている彬に、叔父さん2人がありもしない「意図」を言い募って詰るシーンは、既視感があってゾワゾワしました。「お前はこっちを馬鹿にしてるんだろう!」って、「馬鹿にしている顔」なんて、してないじゃん。ここまで来たら、企業自体、親戚同士が争うための単なる道具に過ぎないと告白したようなものです。

まあ確かに、彬の顔は真に優れた人そのもので、相手がその不安をついつい投射する鏡になってしまうんですね。横浜さん、ほんとイーロン・マスクもきっとこんな感じだろうと思えるような見事な剛腕社長っぷりでした。

それでも、最後に懸命に叔父さんたちに訴えかけるシーンは沁みました。きっと、こんな事するのは彬の人生で初めてなのでしょう。晋叔父さんの涙には、つられてちょっとジワっとしてしまいました。思い通りにならない人生を、途中で損切りする痛みは、私にもわかるよ、と。最初から、兄弟同士で張り合わずに、それぞれ自分らしい生き方を選べていたら、どんなにか充実して楽しい人生だったでしょうか、なんて。

老害」なんて言葉がたくさん飛び交う時代になりました。老齢に達して、損切りの勇気も持てない人たちが多いのは、日本経済のアップダウンと無関係ではありません。

どんなにささやかでもいいから、生きててよかったと思える記憶の積み重ねを、どうかすべての人に。

 


さて、次回は山﨑瑛について書きます。リベンジの人生、ですね。

では