映画「ドライブ・マイ・カー」見ました。

一昨日、ふいにお休みを貰えたので、かねてより気になっていた「ドライブ・マイ・カー」を見てきました。

以下、ネタバレを含みます。

PG12の理由は、オープニングで理解しました。ふう。でも、このシーンが想像以上に大切だったと後でわかるのです。

物語は、チェーホフの「ワーニャ叔父さん」の舞台と現実が裏表の関係になっています。あと、「好きな男の子の家に空き巣に入る女子高生の話」も伴奏として。

舞台俳優の主人公は、脚本家の妻が吹き込んでくれた戯曲のテープを車の中で流しながら運転し、台本を頭に入れるのが習慣でした。そして、妻の突然死で「ワーニャ叔父さん」が最後のテープになったのです。他にもいろいろあって、主人公は、ワーニャ役がもうできないと思うのですが、まさにこの劇の演出家としての仕事が入ってきます。

地方の劇場の主催者が用意してくれたドライバーの女性との奇妙な二人三脚が始まります。車の中で流れる「ワーニャ叔父さん」の台詞は、同時進行で起こっている様々な出来事とシンクロしています。神は細部に宿ると言いますが、細かいところまで、本当にすごく良いのです。

劇中劇と本筋がシンクロしている物語には、いくつも思い出すものがあります。どれも奇妙な快感を覚える、好きなものばかりです。そもそも物語は多くの場合、救いです。こちらの現実の混沌を整理する手助けをしてくれるからです。少なくとも私の場合はそうです。言わば、人は、物語たちとシンクロしながら生きる、メタ物語の登場人物とも言えるでしょう。

主人公、家福さんの心も、劇の進行によって変化していくのを、観客は特別な説明も抜きに感じとります。不思議で静かな快感。

「ドライブ・マイ・カー」は喪失を物語の中心に据えています。人は死ぬものなので、喪失はありふれた事象に過ぎないとは言え、二人称の死の絶望がどれだけ深いか、人は直面するまで本当には知ることができません。失われるのは、愛する対象だけではありません。その人の内面の、謎の部分は謎のまま消えてしまいます。後悔ばかりが残る筋道を、家福さんはごまかすことなく語ります。

想像力に恵まれて、物事の細かいところまで気持ちの行き届く人には、余計にこたえることでしょう。繊細さは、人生をより豊かに楽しむ為の強力なツールなのに。

喪失にどう立ち向かったら良いのか、とは古今東西の普遍的なテーマです。辛さの余り、代わりを求めることによるトラブルなども、よく問題提起されることです。わかりやすい敵を設定して気持ちをそちらに集中させるとか、手っ取り早く破滅する道もあります。向かい合うのは死ぬほど辛い、でも逃げても無駄。物語では自死という完全な逃避もよく出て来ます。そういえば、同じチェーホフの「かもめ」は自死で幕を閉じました。

そのテーマに答えを突きつけた「ワーニャ叔父さん」の最後のソーニャの台詞。ここはネタバラシしません。ここは、静寂の中にどうか没頭してください。ここだけでも何度も見る価値のある映画です。

ふと「鬼滅の刃」の炭治郎の名台詞「失っても、失っても、生きていくしかないんです。どんなに打ちのめされようと」を思い出しました。これが時代のトレンドになっていくかも知れません。言い方が軽くて何ですが。これしかないんだと、私も思います。

それとは別ですが、特筆すべきは、家福さんと「真犯人フラグ」の相良さんの中の人が同一人物という驚愕の事実です。いやいや「散り椿」の采女さんや「八重の桜」の覚馬さんとも同一人物らしいという噂ではないですか。ほんと俳優さんて凄い。

 

まとまっていませんが、感想でした。

 

さて、これから「新聞記者」をNetflixで一気見します。何だか怖いんですが。でも行きます。感想は、ひょっとして遅くなるかも知れません。

では