物語考>「DIVOC-12」続き

さて、映画の感想としては全くなってない前回と前々回のアップでした。

それぞれのキャストやスタッフのファンが、推し目当てに訪れる映画、と推察されます。だから推しの素晴らしさをきちんと書くのはファンの務めだと思うのです。思うのですが、ごめんなさい、横浜さん。横浜さんも素晴らしかったけど、映画もトリップするほど良かったのです。

横浜さんは、今までの作品とちょっと違って、ドキュメンタリーを見ているようなリアルさがありました。いい意味で普通って言うか。無精髭は、役として初めてではないでしょうか。おかげで、うっかり体温や匂いまで錯覚して、ドギマギしました。でも、そのせいかその子の抱えている空虚な感じも虚構に思えなくて、ふわりと現れたアンナに、こっちまですがる気になってしまいました。「何とかしてくれるよね」って。アンナって、本当は何だったんでしょう。

なんと言いますか、存在の哀しさを抱えつつ、それでも前を向く、というのが、このオムニバス映画全体を包括する空気のように感じました。前を向くのも、静かにさりげなくもあれば、ガツンとというのもあって。それにかなり揺さぶられて、1週間も経った今でも頭が再構築中で、おかしいのです。途中に配信で別の映画を見てみても、それが変わらないとは。久々のこの感じ。「私フィルター」が、これは傑作だ、見て損はない、いや、見ないと損だ、と告げている証です。他の人のことはわからないのですが。

 

ところで、本当においしい料理には、3つのおいしさの波が段階を踏んでやってきます。香りとひと口目の感触。次に、噛む毎に口いっぱいに広がる味。最後に、喉を通過して行った後味。今まで食べて、これが素晴らしかった食べ物を5つは挙げられます。それらの記憶は、それを作ったシェフやお店の名前と、強いつながりがあります。美味は作った人と切り離せないのです。

映画やドラマも同じですね。公開前の宣伝、視聴、そして余韻(今ここ)。美味しさの波は確かに三波でやって来ます。そしてシェフの名前が強く記憶されることも。

普段見慣れているはずの物が特別に見えたり、同じ役者がまったく違って見えて、その役の人になったりするのは、役作りももちろんですが、作り手によるものが大きいのでしょう。アラカルトのご馳走のようで、本当に贅沢な映画でした。

映画は昔から好きなのですが、長らく役者目当てがほとんどで、製作者目当てで映画を見るようになったのは、師範が映画で脚光を浴びるようになってからです。20年くらい前、でしょうか。師範主演映画の共演者や監督や脚本家の作品を見たりしました。本気でファンになると、作り手の方たちをどうしても推しの「同志」と見てしまうようです。

そんな風に数を見ていくと、パターン認識ができます。言語化できない製作者独特の空気が染み込んできます。横浜さんはこれから藤井監督と映画を作られる、しかもオリジナル作品を、と言われていましたね。監督の作る空気の中の横浜さん、もっと見てみたいと私も強く思います。

ではまた