表現者>推しの結婚について

星野源さんと新垣結衣さんのご結婚のニュースは、想像していた以上に大きな波になって広がっているようです。シンプルに祝福する人もいれば、少なからずショックで心が萎れてしまう人もいます。そして、ファンの中には、寂しいけれどこれで推しが幸せになるなら、こんなに嬉しいことはない、という気持ちでいる人もいます。これなどは、子供を独り立ちさせる親の心境に近いように思います。

私の推しである師範の時は、前もっての戦略か否かは知りませんが、お付き合いしていることはスクープされていたので、「電撃結婚」というショックはありませんでした。結婚そのものも、ファン宛ての手紙で、報道より先に報告する段取りだったようです。手違いでフライングのニュースになってしまいましたが、ファンのショックをできるだけ弱めたいという誠意はしっかり感じ取りました。師範らしくて、こういうところも好きだなあ、と。

もともと、私は「まだか、まだか」と待っていた口だし、「女性は色々大変なんだから、いつまでも待たせるのは可哀想だよ」とヤキモキもしていました。親戚のオバチャンのり、というやつです。

ただ、予想はしていましたが、結婚報道の直後「大丈夫? 凹んでない?」という声をかけてくる人がいました。私、還暦なのに。すごいですよね。お気遣いはとてもありがたいのですが、私のファンとしての立ち位置は、推しの結婚で凹む性質のものではないのは、理解してもらえないんだろうなと、そっちが寂しかったりしました。

私は推しに疑似恋愛をしていたわけではないんですね。そもそも、まともな大人の女性の恋愛感情があるのかも我ながら疑わしいし。これがバレないように自分を偽った、黒い記憶の数々が蘇って来ます。でもそんな中でも「好きな人間」は、少ないながらも厳然といました。年齢性別人種関係なく。そのひとりがたまたま表現者だったのをこれ幸いに、「ファン」という立ち位置につかせていただいて、それによって幸せをもらっている次第です。くどい言い方しましたが、つまりは命ある限り、あの子の芝居が見たいんです。どうしても。理由は知りません。

副産物として、大好きな人の幸せを祈るのは、精神衛生上とても有効です。さらに、それを公開の場で迷うことなく表現すると、効果が倍増します。やっかいな病気が寛解した私の実感です。

結婚に関して言えば、星野源さんの熱烈なファンの方が言われた、そんな人気者になってしまったが故の孤独を、結婚によって和らげることができたのなら、もう祝福しかない、という言葉。これに尽きます。

芝居が見たいから、幸せな家庭を持って欲しいのか、幸せな人生を送って欲しいから良い仕事=芝居をして欲しいのか、鶏が先か卵が先か。どっちでもいい気がして来ました。

何だかまとまりがなくなって来ましたが、今日も推しの幸せを祈りつつ。

では