映画「ただ君だけ」鑑賞~「きみの瞳が問いかけている」その2

昨日の続き。

「ただ君だけ」と「きみの瞳が問いかけている」との違いで「おやっ?」と思ったシーン。

韓国版の、ヒロインが上司に部屋に乗り込まれた時、ジュースを注いで出しながら「火を使えないので、お茶がいれられないんです」と言ったところ。そう言えば、炊事のシーンがありませんでした。

明香里は視覚障害のリアリティ溢れる炊事シーンありました。視覚障害の方に実際に習ったというリアルな方法で朝ごはん作ってましたね。人参も切ってました。

そもそも出会いの時に塁に渡した「不細工稲荷」の呼び名に、美味しいものを作る自信はあるけれど、見た目はチェックできないから、という思いが込められています。

日本版の方が自立度が高いのは、明香里の母性の強さを表しているのでしょうか。

いずれにしても、失明してから4年で、点字も、日常生活の細々した作業も、テレオペの仕事もマスターして、一人で暮らしていた・・・それだけでも大変なことだと思います。

その上で日韓両方のヒロインたちは、明るくて無邪気なところが素敵で。

以前、ボランティアに関わっていた時、視覚障害を持った知人が何人かいましたが、晴眼者が思っている以上にいろいろできる快活な人は多かった、という印象があります。

それは、人から憐れまれたり、蔑まれたりすることを拒否することでもあります。

主人公男性が、上司に襲われていた彼女たちを、彼らが持っている一番の力で救い出しても、結局、社会の文脈の中で綱渡りのように生きている彼女たちには、本当の救済にならない・・・。

この構図は、女性には共感できるところが多いかと思います。

後日、すっかり気落ちしている男性のところに、彼女たちがやってきて「週末どこかに連れて行って」と言うのは、実は彼女たちの「救済行動」だと感じるのですが、どんなもんでしょうか。

「責任はとる」「自分があなたを助ける」が、男性の求愛行動だと理解したうえでの一歩前進ということで。

さて、二人がはじめて出かける場所が、韓国版では男性の故郷があったはずの川のほとり。日本版では母親が塁と無理心中をはかった海岸。

一緒にコンサートに行く友達がいない、自分の話をしたがらない、というだけで、いろいろ複雑な事情がありそうだとは察していたでしょうが、ここでヒロインたちは、その男性が自分と同様、天涯孤独だと知るわけです。

自分が失明するまでは包まれていた家族の愛情も、男性は味わったことがない、ということも知ってしまうわけです。

ヒロインたちは「そのこと」に深く言及することなく、これから一緒に生きていくことを遠回しに提案するのです。

韓国版は、それぞれの石。日本版はシーグラス。それらを象徴にして。

悲しい思い出だった場所が、その日から幸せな人生の出発点の思い出の場所に、塗り替えられるわけですね、彼女たちの手で。
女性は、恋愛に関しては、男性よりも上級者ですなあ。

 

吉高由里子さんは、巷では「小悪魔」と呼ばれていて、男性はみんなとりこになる、と伺いました。わかる、気がします。

蜷川さんが監督された「蛇にピアス」でショックを受けて、吉高さんのことを「どうか、この女優さんが、売れますように」とSNS上で祈ったことがあります。

願いがかなうのは、嬉しいことです。

恋愛物は多くなくて、今回は久しぶりだとのことですが、とても素敵だったと思います。

 

今日はここまで。

ではでは