物語考>「燃えよ剣」〜「かたち」の話

映画「燃えよ剣」の感想です。大ヒットのようで何より。でも、当然だと思いました。すごい映画でした。風景や建物や人々の姿、どれひとつとっても、150年前にこの日本で起こった事を時空を超えて映し出す、画像タイムマシンを見ているようです。ちょっとハイカロリー過ぎて、消化に手間取っていますが、近々また行きます。

さて、感想を。例によって、頭はとっ散らかり気味です。

この映画の中で、特に土方さんが何度も口にする「形が良くない」などの「かたち」が、この映画を貫く思想なんだと思いました。現代人である私には、そこまでのこだわりを持つ理由がよく飲み込めないでいました。

「かたち」と言えば、思い出すことがあります。どんな相手でも、別々の人間である以上、価値観が一致することはありません。ただ、師範に限っては、その言葉を極力そのまま受け入れるのをマイルールにしてきました。それでも、心の中に大きな疑問符が浮かぶ時があって、そのひとつが、今回の映画にも絡んだ「かたち」のことでした。

師範が何度か語られていたエピソード。ご実家では、家族で唯一の男性だった師範が、必ず1番風呂だったという話です。「男を立てる」という「かたち」なのですよね。

これをいつも変な感じで聞いていました。私の父や兄が一番風呂に入ったことは記憶している限り一度もありません。単純に更湯が体に毒なので、大黒柱と跡取りは入れない習慣なのです。1番風呂は風呂の水汲みと風呂焚き担当の年少の娘、私と妹でした。私は薪割り担当もしていました。次に父と兄。終い湯は母と姉。ともかく長風呂で、中で小物の洗濯や風呂場の掃除もするからです。

父方は物作りの家系、母方は農家でした。どちらも男性が肉体を酷使して労働するので、実を取ってそんな習慣になったのではないかと推測しています。これも一種の「男を立てる」習慣ですが、師範のところと正反対なのが面白いと思いました。そんな訳で、師範のお風呂の話に、ひょっとして師範のルーツは士族なのかなと想像しました。

武士は「かたち」を絶対視する層だと思います。日本では、武人が統治してきた800年の歴史があります。武力で略奪する集団と力の根拠が同じでも、統治される民からの信頼無くしては成立しない立場です。一言で言えば、美しく生きていなければ、統治者=武士ではない、と。

美しく生きることは、美しく死ぬことに通じ、往々にして「実」を捨てることでもあります。体に悪いこと、辛いことをあえてするのは序の口。切腹やら、勝てない戦闘に赴くやら、現代人の感覚では受け止めきれないことばかり。まとめると、自分の命を惜しんではいけない、という道徳律が存在するということです。

今も昔も、人間の中身と立場が完全一致する事はなかなかありません。「○○にあるまじき」事なんて、山ほどあります。立場は、中身を完全保証しないものです。ましてや、戦のない時代が260年も続き、そろそろ武士階級も綻びが末期になって、武士の武士らしさが形骸化しつつあった幕末です。その中でも、会津藩はずっとその道徳律を守っていたようです。子女に対する教育の熱心さなどから、それが伝わってきます。「燃えよ剣」の会津公、私の思い描いていた通りの名君でした。

会津の街を歩くと感じるのは、人々の会津戦争での悔しさ、です。150年の時を経てもなお減衰しないのか、はたまた何かのきっかけで再燃したのか、それはわかりません。旅の途中、福島県立図書館でその当たりを調べてみました。会津戦争は大河にも何度か描かれてはいました。ドラマで表現できなかった薩長軍の暴虐が、専門書には具体的に記録されていました。これは、武人の「かたち」を重んずる作法から外れます。

土方さんたちは、この敵と転戦した挙句、戦死されたのですね。胸が痛みます。

日本には、長い戦国時代があって、その間に作法は確立されたはずでした。豊臣の北条攻めの最初、山中城戦では、秀吉の可愛がっていた部下が討ち死にしましたが、敗北して自刃した北条の大将と、並べて葬られました。その墓を見た瞬間頭に浮かんだ言葉が「ノーサイド」です。天下を平かにする為には、個人的な恨みは捨てなきゃならない。敵味方仲良く並んだ墓がそう語っているような気がしました。

それなのに、幕末でのこの報復の応酬は、一体どういうことなんだろう、と思うのです。

農民の出身だった土方歳三近藤勇が、武士に憧れた時点では、「武士たること」は、もう全体として実体が無くなっていたかも知れません。そんな描写が映画の中にもありましたね。だから、会津との接点が生じなかったら、見果てぬ夢で終わっていたかも知れないし、案外その方が新しい世でいい感じに人生を全うできたかも知れません。その後の武士階級の没落を思えば。

それでも、新撰組は、新政府の要人たちに引けを取らないほど、後世の日本人に愛され続けています。グローバリゼーションに国ごと翻弄されながらも、その不条理に見える生き方に惹かれる日本人が絶えないのはなぜなのでしょう。かっこいい事ばかりじゃなかったのに。映画はごまかさずに、汚いこともちゃんと描いているのに。

映画「燃えよ剣」では、土方歳三という人が、バラガキから、「美しくなっていった」道のりが、これでもかと描かれています。人として美しい極みの我らが師範が、それを完璧に演じてのけています。

ラストはふと既視感。「永遠の0」で、宮部さんの幻を孫が見るシーンで、毎回「行かないで、死なないで」と心の中で叫んでしまう、あの瞬間。物語の最初と最後がつながっているので、永遠に私のその叫びもループするのです。「燃えよ剣」も、その永遠のループの仕掛けがあるんですね。土方歳三の人生も、後世の人間の中で無限に駆け巡ることでしょう。

今日はここまで

では

 

 

 
 
 
 
 
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